隣人は密かに(9)



斜め上へ目をやると、案の定『入浴中』の札が掛かっている。

大江家は非常にアナログな下宿なので、入浴も声掛けだ。
基本のトップバッターは大家の孫たるユキ。ただ、彼が部活の時は年功序列に切り替わる。つまり1階の貸し室に住んでいる大学院生(この人はあまり居ないので大体飛ばされる)、続いて3年の東明先輩、2年の見目、林ペアはその日の早い者勝ち、俺と黒澤も右に同じく。部活で遅くなったユキは俺を先に入れたがるので後に回りがち、ばあちゃんは泣けることに最後。働き者だ。
とは言え、林先輩は風呂で遊び始める場合もあるので、高確率でどんけつになる。一体何歳なんだ、あのひとたちは。俺より年上の筈なのに、あのフリーダムぶりはどうしたことだ。


他の面子は部屋、下の院生、小積さんはフィールドワークとやらで今月は不在。
消去法で行くと、現在風呂を使っているのは見目先輩だ。ほぼ確実。
だのに、こんなに必死に意気込んで、居ない人の部屋へ突撃するのは、自分でも馬鹿だとよく分かっている。

しかも極めつけは、手紙と一緒に持ってきた、メガネだ。

兄貴から貰ったこの魔法のメガネ、何を隠そう、万が一、見目先輩が部屋に居た場合の対策なのである。
あのスーパー爽やか光線で、「どうかしたのか?」と問いつめられでもしたら一大事だ。
そこまで話をしたこともない、まともに遊んだこともないけれど、紳士的な中にも鋭い雰囲気があるひとだ。うっかり本当のことを話してしまいかねない。俺的には不本意。
あくまで、『手紙は渡さない』。何だか意固地になっている気もするが、男の意地だと赦して頂きたい。

(「いっそ、手紙は置いてくればよかったのか…」)

思わずカフェテリアのチケットまで持ってきてしまった。こっちは真剣に無用の代物だ。ユキの来訪で奮起したのは結構だが、ちょっと勢い余りすぎたかもしれない。しかし今となっては後戻りも阿呆らしい。
深呼吸を大きくひとつして、よれよれになったTシャツの襟に引っかけていた眼鏡を取り上げ、掛ける。

「……ぅ、…」

やっぱり、しっかりレンズを通して物を見ようとすると、目の表面から頭の奥までがずん、と重くなった。さっさと済まさないとマジできつい、精神的にもだけど、身体の方も。

掛けた後も思わず息を吸い込んでしまって、また吐いた。ぐらつく頭を叱咤して、一歩踏み出す。握り締めた手紙は力を込めすぎて、新しい皺が出来ていそうだ。返す時に文句を言われてしまうかもしれない。

さあ。

(「ノックして、――――居なかったから、帰る。居たら、もし、居たら、斎藤です、風呂、終わりましたか、そうですか、わかりました済みません、確認です、って言って…部屋に戻る。………ノックして、」)

ノックして。
心の中で幾度も繰り返したシミュレーション通りに、堅い木の扉をノックした。今ひとつ力が入らなくて、こんこん、と弱々しい音になってしまった。

頭の裏側から首の辺りへ重い、痺れのようなものが這い進む。そんな俺の視界いっぱいに、ひかりが、溢れた。





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