隣人は密かに(7)



【斗与】



ドアを閉めた後も、暫く言い合いが続いていた。東明先輩は本当に難儀だ。前はもっと温和しめなひとだったらしいけれど、去年、双子が入居してきてから色々と鍛えられてしまったみたいだ。程なくして、一度去ったと思われるユキが帰ってきて、何か言っていた。そうしてようやく静かになった。あいつ、案外この手の仕事向いてるんじゃないかな。


そして俺も、俺の為すべきことをしなければ。


大丈夫、もう迷っていないというのは嘘だ。真っ赤っかな嘘。
ユキがやってくるまでの間、俺は手紙を破りたい衝動に駆られていた。ほんの短い時間だったけれど、ふっと沸いた感情は身体の隅々まで俺を支配していた。

他にも色々。例えば渡した振りをしてしらばっくれるのはどうだろう、とか、渡そうとしたけれど断られたと言うのはどうだろう、とか。役に立たないと分かれば、くだらないニュースソースごと、特進科は放り出すかもしれない、そう考えすらした。サイアク。

でも、あいつがやってきて、腹が決まった。
俺が煮詰まっているんじゃないかと、助けの手を差し延べようと、
掛けてくれた声を振り払うように、自分の手で―――まずは、勉強机の抽斗の、把手を掴んだ。
抽斗の中、筆記用具やホチキスの奥に眼鏡ケースが仕舞ってある。何の変哲もない、眼鏡屋でオマケにくれるような無地のラバーケース。
開けば、ごつい楕円のフルリムの眼鏡が現れる。東明先輩がしているのに少し、似ている。縁は銀色で、レンズは相当に分厚い。

これは俺にとって、魔法のメガネなのだ。

『これ持ってけ、斗与』

兄貴が昔使っていた、軽量加工をしていない俗に言う瓶底メガネ。凄く度がきつくて、掛けると頭は痛くなるし、目の前は歪んで何も見えなくなる。受験の時、兄貴―――戴斗兄がくれた。

『お前は平気そうに見えて、全然平気じゃないからな』

面接で掛けろよ、と渡されたのがこの瓶底だ。試しに掛けてみたら見事に目の前がわやわやになった。酷い。多分笑っているであろう戴兄の顔も、単なる色の集合体に変じていた。肌色と黒と、着ているセーターの藍で構成された塊。

『じゃがいもどころか全部消滅すんぞ、便利だろ。バルスだバルス』
『バルスってなに』
『何でもふっとぶ愛の呪文』

けたけたと笑いながら兄貴は煙草を吹かしていた。想像していたより重量のあるそれを、首を傾げながらも受け取る。バルス?何だっけ、それ。

ユキにもまま言われるのだが、俺は何事があっても割と平然としているように見えるらしい。だが実際は兄の指摘の通り、内心ではパニくっていることが多い。自制をするのはいつだって必死の業だ。
日夏学園は一般入試でも面接が普通にあったので、学科で点数が取れたとしても、肝心要の面接でこけたら当たり前に合格は厳しい。掌に人を書いても面接官は消えたりしない。
そんな時、兄貴が部屋にやって来てこれをくれた。非常に実用的なお守りをやろう、なんて軽口を叩いて。
人の顔があるっぽい方角をしっかり向いて、質問にだけ集中すればいい。このメガネを掛ければ怖いものは全部消える。



久しぶりに取り出して掛けた眼鏡は、相変わらず邪悪なまでの度のきつさだった。そりゃあ俺はちびだけど、健康優良児で視力も良い。両目ともに2,0を保守している。数少ない自慢できることのひとつだ。

「…い…っ、たぁ」

目が痛くなるってどんだけだ。頭もすぐにズキズキと軋み始める。思わず目蓋を閉じて、意味のないことに気付き、取りあえず外した。レンズが乗っかっていた頬の肉が、慣れない重みで痕でもついたような気になって、反射的に指の先で擦ってしまう。
いつまでも同じ動作を繰り返しながら、こんなことに使われるだなんて、兄貴は思ってもみないだろうな、と自嘲した。





扉を少し開いて首だけ出して、廊下の端々を見る。少し前まで騒がしかった部屋の前も静かなものだ。

経年と手入れでつるつるになった木の床が、俺の部屋を大体中心にして左右に延びている。左は母屋に繋がる。ばあちゃんやユキの部屋がある方だ。右は黒澤や林先輩、―――それから見目先輩の部屋がある。
突き当たりは小さなベランダになっていて、俺たちはそこで洗濯物を干す。ベランダの手前、右(つまり見目先輩の部屋の隣だ)は水場だ。洗面所、簡単な食器棚、下宿生用の冷蔵庫がある。左は正面玄関以上に急な造りの階段で、降りていくとトイレと風呂、貸し室――下宿じゃなくて自炊が出来る――、それから洗濯機が置いてある所に出る。行こうと思えばそこから外へも出られた。

やや局地的な感のある照明が、ぼんやりと俺の姿を廊下へ映し落としていた。滲んだ像は、実際の表情の強張りを誤魔化してくれる。相当緊張した顔をしているんだろうな、俺。

あと2時間ほどで、母屋と下宿棟は簡単な硝子戸で塞がってしまう。
同じ屋根の下に住んでいるにしろ、人の部屋を訪ねるには遅い時間だ。そうと決めたら、さっさと行くに限る。大袈裟な物言いかもしれないけど、今日1日は特進科と手紙に捧げてしまったようなもんだ。



――――手紙は、渡すことにした。




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