(8)



 ぐん、ととんでもない力で腕を引かれて、全く背後に注意を払っていなかったので、ひきずられるみたいに反っくり返ってしまった。背中を硬い感触が打つ。痛さよりも驚きが勝った。涙目になっていたとしたら、それが理由だ。

「は、は、はあ。……呼んでも振り返ってくれないから、…おっかけちゃったよ」
「…とがのさん」

 仲間と円座を組んで呑んだくれていた筈の営業マンが、俺をしっかりと抱き留めていた。見た目を裏切らない力の強さに感心しつつ、彼へ向き直る。きちんと背を糺し、地面に足を付けた兎我野さんは、観春と同じか少し低いくらいの身長だった。まあ、当たり前に酒臭い。それなのに目つきだけは妙に真面目だ。

「なに。帰んの?」
「はい」
「ヤマシナ君の席、友達来てんじゃん。一緒に呑まないの?」
「……俺、…バイトだったんです。席取りの」
「……」
「言いませんでしたっけ」と、笑ってみせる。「だから、これで仕事は終わりです」

 兎我野さんはぎゅっと口を真一文字に結んだまま、俺と、今し方出てきた観春たちの席を交互に見遣った。僅かに髭をそり残した口元が「ウソツキ」と動いたように見えて、本当にこのひとは営業が生業なのか、と疑わしく思っていた俺は若干反応が遅れてしまった。

「…じゃあ、おれたちんとこで呑もう」
「は?」
「オジサンばっかで微妙かもしらんけど」と兎我野さん。メッシュ、もとい、白髪交じりの頭をばりばりと掻く。「…あー、女の子居るよ、二人だけ。一人はカレシ居るけど」
「……ええ、と…?」
「ほら、何でもいいから、おいで」

 容赦のない力で手首をぎゅっと握られた。少し痛い。顔を顰め―――それでも、無碍に振り払えはしなかった。気遣いは純粋に嬉しかったから。
「ありがとうございます」と、心からの感謝を込めて礼を言う。

「でも、帰らなきゃいけないんです。人を待っているので」
「人?誰?ここで待ってちゃいけないの?」
「はい、…そうできたら、良かったんですが」

 でもきっと、俺は堪えられない。
冬織と同じ顔をした観春が、女の子に囲まれて談笑している光景を、なんでもない顔でやり過ごせない。分かっているのに、言い聞かせているのに、理解とは違う部分で、歯を噛み鳴らし、胸の痛みを押し殺している自分がいる限りは、駄目なんだ。
それに、俺の戻るべき場所はあのマンションしかない。観春が―――冬織が、帰ってくるにしろ、来ないにしろ。

「兎我野さんと時間が潰せて良かったです。退屈しませんでした」

 本心からの言葉だった。顔は、うまく笑えていないかもしれない。それくらいは勘弁してくれるといい。先ほど女の子たちにしたよりも深々と頭を下げれば、掴まれたままだった手首、いや掌に、何か乾いたものがぎゅっと押し付けられる。

「……?」
「今度、給料出たら奢ってやるから!…いいな、これは男と男の約束だ!」

 忘れんじゃねえぞ、と投げつけるみたいに言われ、勢いに負けてこくこくと頷く。そんな俺に満足したのか、兎我野さんはもう一度、両手でぎゅっと俺の掌を握ると、子どもみたいにバイバイをしながら駆け去っていった。しかもかなりのスピードで。おざなりに穿いたブーツの所為か、…いや、酒量の所為なんだろう、足元だってかなり怪しいのに、結構な早さだ。流石に心配になって、見送ってしまう。

「…前、見ろよなあ」

 案の定、長閑な家族連れを蹴倒したり、カップルの真ん中を裂いたりしている。その都度謝りつつも移動を止めないので、惨状は広がる一方だ。
二十八ってあんなものなんだろうか、と思いながらかさかさ鳴る手元を見下ろした。所々折れ曲がってしまった白い紙へ、くっきりと明朝体の字が浮かんでいる。

『緑陽謄写堂 営業部 営業二課  兎我野 舜』

 どうやら身分詐称では無かったらしい。ついでに名前も偽名じゃなかったみたいだ。
紹介通りの名字を実際目の当たりにすると妙におかしくて、泣き笑いになってしまった。もう、二度と逢うこともないだろうに、彼が掛けてくれた言葉にとても救われたような気がする。
ポケットに仕舞い込もうとして、止めた。皺を伸ばし、図鑑の間に挟む。いつかは忘れてしまうかもしれない名前だった。それでもしばらくは、この日の天気のこと、馬鹿な期待のこと、嬉しそうにビールを煽っていた、浅黒い横顔を思い出すだろう。


花見客に紛れて姿が消えるその瞬間まで―――観春がずっとこちらを見ていたことも知らずに、俺はそんなことを考えていた。


>>>END
→X.花盗人


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