(4)
「おれの名前は、兎我野でーす。とがの。ウサギに自我のガ、のっぱらのノ。君は?未成年。」
「……」
「んー?何、聞こえねー!」
だって言ってないし。知らない男にいきなり話しかけられて、ほいほい名前なんて教えるか。
しかし忌まわしいことに、膝でずりずりといざり寄ってきて、そいつ―――兎我野はシートの端に到着した。
「ほら、大きい声で、よく聞こえるよーにっ!いっちにー、はい!」
「……」
距離らしい距離が埋まってしまった後でも、兎我野の喋り方は怒鳴りに近く、正直居たたまれない。幾ら人がまばらといっても普通に恥ずかしい。だから、と言い訳するのも情けないが、思わず、答えてしまう。
「…やましな」
「えー?」
「だから、やましな、です」
「なんさい?」
「十九です」
「若ッ」
「……」
「ねー、なによんでんの」
「植物の…図鑑です。ポケット図鑑」
「なんで?」
「勉強です。樹の名前を覚えなくちゃいけないので」
「ふーん」彼はビールを一息に煽った。「…面白そうだね」
実に興味の無さそうな声色をしている。流石にむっとしたが、これで面倒な会話が終わるのなら安い―――かもしれない。俺は図鑑に目を落とした。
「ねえ」
「…っ」
まだ、続くのか。飽きただろうと思ったのに、兎我野はのほほんと頭上の桜を指差していた。
「樹に詳しいならさ、この桜はなんか名前ついてるわけ?」
「これはソメイヨシノです。あっちの先で少し濃い目のピンクのが普賢象。八重咲きで、後で色が変わる花です。白っぽくなる」
「そういうのって知ってるとモテたりすんの?」
「…ええと、…」
「あ、今、なんだコイツって思ったでしょ。でも君、全然顔変わんないね、ヤマシナ君。スゲー」
ケラケラと笑い声をあげる酔っぱらいを見ていて、えも言われぬ遣りにくさを感じた。
(「…そっか…」)
似ているんだ。冬織に。―――それから、出逢った頃の観春に。やたらによく笑い、懐っこく話しかけてきた彼と、どこか、似ている。
そう思った途端、突き放せなくなってしまったから現金なものだ。俺は改めて彼と向き合った。勿論、お追従で笑いかけたりはしない。兎我野は悪戯がうまくいった子どもみたいに、にこりと笑った。
「おれの相手してくれんの。ヤマシナ君はやっさしーね」
「兎我野さんが話しかけてきたんでしょう」
「あ、おれのことはトガ、でいいよ。それがウサ。会社でそう呼ばれてっから。ウサちゃんとかってさ、まだギリ二十代だからいいけど、これから年喰ったら結構やばいよね」
「今でも既にやばいと思いますよ。自分で厭じゃないなら、別に、いいと思いますけど」
「ヤマシナ君、初対面に対する態度じゃないよ、それ。もっと大人は敬わなきゃ」
「兎我野さんもいきなりすぎると思います。…知らない人に、しかもビール六缶もあけてる人に話かけられたら、ちょっとはひきますって」
「君、喋るね、ちゃんと」
兎我野――さんは、また笑った。へへへ、と照れたような笑い方をすると、年齢が五、六歳は引き下がる印象がある。会社員って言っていたけれど、この人、何の会社に勤めているんだろう。
目の前の相手に興味を覚え始めている自分が居る。曇り空、弱い光に透ける桜、穏やかな昼下がり。
(「ああ、『養花天』だ…」)
冬織と俺がどんなに欲しても手に入らない時間が、ゆっくり消費されていく。
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