(3)



 急な依頼だったこと、日頃の行いにも助けられてアルバイト先での叱責は避けられた。むしろ「無理を言って悪かった」と店長に謝られてしまった。早々、遅刻・欠勤の類をしないので「同居人の飯を作り直していたので遅れました」と打ち明けても、ぽかんとされるのがオチだろう。


昼過ぎまで働いて、観春の指示通り恩賜公園に向かう。
歩いて四十分くらいだろうか、通る道すがらも桜の樹がちらほらと見えて、自然、微笑みが浮かんだ。何故、桜を見るとこんなにも浮かれた気分になるのだろう。行き交う人のなかにも、立ち止まって頭上を見上げている姿がある。
大島桜に江戸彼岸。その掛け合わせの染井吉野。ほんのりとした淡い緑と黄が入り交じった御衣黄。どれもこれも、月並みな表現しかできないけれど、ほんとうにきれいだ。

観春が指定したこの公園は、桜の名所として有名なところだ。散歩で訪れることはあったが、花の盛りに見物をしたことは無かったから、席取りついでに花見ができると思えば、拘束される煩わしさも軽減できる。
それから、高専の課題。メッセンジャー・バッグの中には植物図鑑が入っている。葉脈から樹木を判断する課題があって、どんなに少なくとも百種は覚えないといけない。教壇の前に呼び出されて、順繰りにテストだ。出来なければ当該科目は今期の単位を出さない、とまで言われてしまった。これが俺の、前倒し五月病の原因である。

「…ここらへんで、いいか…」

 平日で花曇だからだろうか、覚悟していたほどの人出はなかった。舗装路をぶらつきながら、めぼしい場所を捜す。芝生の上には点々とカラフルなシートが広がり、俺と同じように番を仰せつかった連中がごろりと転がっていた。こんな日中から何をしているんだ、と言いたくなるが、自分も同じ穴の狢である。
そのうち、ロータリーの手前で無難な場所を見つけた。すぐ近くの枝振りはさほどでもないが、座って見た先の桜並木がトンネルみたいできれいだ。今の時点では他のシートとも離れているみたいだし――――と、そこに腰を落ち着けることにした。
途中で買ってきたシートをさっさと広げ、四辺とその真ん中に手ごろな石を乗っける。あとは雨が降らないことを祈るのみだ。蓑虫みたいに体を怠惰に横たえて、ポケット図鑑を広げる。
四時間半、勉強時間としては悪くない。




「おーい」
「……」
「うおーい。そこの人っ」
「……」
「そこの何か本読んでごろごろしてる人!頭短くてツンツンしてて、ジーパンにパーカー着てる君、そう君だよ!」

 まさかと思って振り返ると、茶髪の男がひらひらと手を振っていた。

「……?」

 知り合いかと記憶を浚ってみるが、どうにも思い出せない。

そいつは俺の座るシートから一番近いところに胡座をかいていて、やはり一人だった。黄色と赤の市松模様の、派手なシートを敷いている。花見の番だろう。
二十代後半から三十代前半と思しき男だ。耳の下まである茶色の髪は緩く外に巻いて、所々に白っぽいメッシュが入っている。春よりも夏向きの、快活な笑みを浮かべている。歯なんてCMみたいにきらきらしている。
大分前に活躍していたスポーツ選手、プレーもだが、ファッションも話題になっていたあの選手を彷彿とさせる顔だ。灰汁を薄めたらこんな感じになるかな。体格も割と良さそうだ。少なくとも俺よりかはでかい。
ショッキングピンクのシャツに、オニツカの黒のジャージの上を羽織っている。下はデニムでシートの端にはウエスタン調の短ブーツ。ついでに振ってない手の方には缶ビール、膝の下で転がっているのはその空き缶。

つまり、推定酔っぱらい。

「なに、一人で飲んでんの?おれもなんだよー!」
「いえ、飲んでないです…」
「え、じゃあ飲もうよ!」

しまった、酔っぱらいに真面目に返事をしたらいけなかったのだ。早速トンチキな反応があって、一瞬で後悔した。図鑑のページに指を挟み、記憶も必死で留めてから口を開く。花槐はマメ科。原産は北米で、落葉樹。枝は弱く、風を避ける必要がある。

「未成年なので……、済みません」
「えっそうなの?なんか落ち着いてるし本読んでっから同い年くらいと思った」と彼は言った。「あ、おれ、今、二十八ね。会社員。今日ユーキュー取ったの」
「はあ」

 聞きもしないことをべらべらと喋ってくる。しかもちょっと日本語が変な感じだ。
彼の足近くで残骸になったロング缶の数を数えた。視認できるだけでも五缶くらいある。よくよく見た顔色も、地黒なのか酒気で赤いのか、判断付かない。




- 3 -
[*前] | [次#]

[目次|main]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -