大江由旗の場合(1)
【大江】
斗与はじっとりとした目で僕らの顔を見渡した後、深く溜息を吐いた。少し長くなった前髪を掻き上げ、次いでその手は僕の肩をばしり、と打った。
「しょうがないな…。ユキ、荷物置いてくるから少し待ってろ」
「!!!」
やわらかな口脣から紡ぎ出された自分の名前に、脳味噌が茹でられたみたいになる。耳とか、頬とか、とにかくその辺が急速に熱を持った。
「ほ、ほんとう?本当に、僕でいいの?!」
「…言い出しっぺはお前なんだろうが。俺、真剣に金無いからお前が必要経費を出せよ…さっき自分でゆってたろ」
表情も口ぶりも、あからさまにやれやれ、といった風情なのに、苦笑する斗与はどうしたって優しい。細められた蜂蜜色の目がこちらを見上げるだけで、立っていることすらおぼつかなくなりそうだ。可愛い。大好き。可愛い。食べた…
「あーあ、やっぱりこうなんのか」
桃色にループする思考へ割って入ったのは皆川君の声だった。台詞ほど残念そうじゃないのは、本音なのかスタイルなのか、判断がつかない。彼はいつもそうなのだ。今も、口の端を僅かに引き上げただけの笑みで、黒いジャケットの腕を黒澤君と伴君に回している。二人は襟首を摘み上げられた子猫みたく、突然の衝撃に固まっていた。
「うっぜえ!」
「…」
「まあまあ、そういいなさんな。お邪魔者は大人しく撤収といきましょう。おい、法隆!お前、俺のチョコ減らすの手伝えよ。備も、いいな」
「誰がテメーなんぞ面倒見るかよ!離せってんだろがクソ野郎!」
「…もう少し、静かに出来ないのか」
「あ、今の言い方見目先輩に似てる」
凄く暴れている伴君を皆川君が、その二人を抑えるように黒澤君が背中を押してリビングへ移動していく。うーん、隣の家から苦情が出そうな勢いだ。
しんがりを努めていた黒澤君が、少しだけ振り向いて、小さく微笑んだ。あまりにも瞬間の出来事だったので、もしかすると僕の見間違いだったかもしれない。けれど、確かに胸の奥がつきりと痛む。
ごめん、と思うのはおこがましいことなのだろう。それでも。
「ほらユキ、さっさと行くぞ。いらないなら俺は寝る」
「あ、駄目!待って待って!」
退場していく三人に気を取られていたら、斗与は既に階段の中程で億劫そうに突っ立っていた。彼の姿を視界に捉えると罪悪感は氷砂糖を舐め取るようにしてゆっくりと溶けていく。
ああ、まったく現金な人間なのだ、僕は。
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