イントロ(1)
菓子メーカーの戦略とは実に恐ろしいものである。
ちょくちょく行くコンビニの店頭が赤とピンクの物体で占拠されはじめたなあ、早いなあ、と思ったのが大体1月の中旬くらいだった。それからは恐るべき速度で、くだんの赤・ピンク・その他の色彩に包まれた菓子類が、あらゆるところにはびこり始めた。最早浸食と言っても過言じゃない。細菌並の勢いだ。ハロウィンの時も大概驚いたけれど、バレンタインの早さたるやそれ以上である。
敢えて宣言することでもないけど、俺にとって、バレンタインは無縁のイベントになりつつある。
相変わらず彼女は居らず、妙な嗜好の同性だけは周囲にてんこもりだ。この調子でいったら日本の出生率は絶望的なんじゃねえの、と思うくらいに酷い有様である。
…いや。…ほんとうは分かってる。
周りの奴らよか、自分自身の方がよっぽど問題なのだ。
残念ながら例の不感症に改善の様子はない。むかつくアイツの推測では完全に精神的なものらしいし、インポとも違うみたいだ。
女の胸を揉んででかくするプロジェクトみたいに自分がアレコレやって治療してやろうか、とまでほざかれたが、ご高説は完全に無視している。とは言え、専門の病院に行く勇気なんてある筈もなく、状況は入学時のまま。むしろ四方山あって悪化してる感すらある。糞。
とにもかくにも、バレンタイン・デー、本番である。
俺も男のはしくれ、貰えれば普通に嬉しい。が、残念ながらそんな関わりはこれっぽっちもない。
帰宅部だし、委員会のペアはユキだし。精々、林双子の妹、円ちゃんから貰えるかなあ、くらいのものだ。あと大江のばあちゃん?意外とハイカラなひとなので、無くも無い展開である。
大体俺は、別段、顔かたちが特に良いわけでもなく、頭は人並み、運動もほぼ右に同じく、の凡人だ。学年の初めこそ明るい地毛や、色素の薄い目の所為で珍しがられることもあるが、時間の経過と共に何処にでも居る一人として埋没していく。
よって、他の連中と同じように、学内の有名人が諸手にどっさりチョコを抱えるのを眺めて、終わりだ。
共学校だから女友達も出来たには出来た。けれど、ほとんどのクラスメイトの視線は「大江君と仲良くね」だの「いやいや特進科の彼でしょ」などと語っているような気がする。だからこれも対象としては怪しい。錯覚とか思い込みとか、被害妄想であれば良いのだが、―――え−、墓穴を掘りかねないのでこれ以上の言及は避けようか。
さて、願いも虚しく、前日の今日、学校帰りにクラスの女子に声を掛けられてしまった。
夏からこちら、随分と(なんてまともな表現で良いかは不明だ、)悩まされた相手本位のスケジュールは、年が明けてからは落ち着いている。平和裡に帰宅出来る日もかなり増えた。
教室の其処此処に集まって楽しそうにお喋りに興じる彼女たちを背に、教室を出ようとしていたところだった。
軽い足音を響かせてやってきた同級生は高揚感を引きずったまま、俺の名を呼んだ。
「斎藤さあ、どうすんの?」
「…なにが」
目的語が今ひとつ見えない問い掛けに眉根を寄せれば、当然のごとく「明日だよ」と言われてしまう。
「もし何かするなら、私らこれからやるから、場所貸すよ?」
「…場所?悪い、全然話が見えない」
「え、だからバレンタイン。大江くらいにはあげるんでしょ」
「は、」
若干狸に似ている、愛嬌のあるよくよく顔を眺めている内、ああこいつは調理部だったっけ、と思い出した。放課後、調理室に集まっては、汁粉だのカップケーキだのを作っている部活だ。空腹時にあの教室の前を通るのは軽い拷問だと常々思っている。
じゃなくて。何故にしてそのような話になるんだ?――訳がわからない。
「作り方わかんなかったら、一緒にやればいいし。結構楽しいよ?」
俺の困惑を余所に、ややはしゃいだ声で提案をする彼女へ、慌てて首を振った。
「気持ちは有難いけど、特にその予定は無い…」
「あげないの?大江、楽しみにしてると思うよ?…あ、もしかしてあの特進科の、よく来るひとの方?」
「違うっての。つか、俺、男だろ」
「女子同士でも友チョコとかあるしさあ、そこらへんは拘らなくてもいいじゃん」
いや、普通に拘るだろ。女子が甘いお菓子を手にキャッキャとやっているのはそれなりに微笑ましい眺めだと思うが、男はなあ。無いだろうよ。少なくとも俺的には無い。しかも話の方向からすると、て、手作りかい。
手作りどころか、くれてやる予定なんて皆無だ、皆無。
あまりに力強く否定すると、先ほどから段々と難しげな表情になりつつある(何故だ)彼女が、感情の針を怒りの方向へ振りそうだったので、実際に出たのは、ああ、ともうう、ともつかない唸りだった。
臆病者と笑いたくば笑ってくれ。徒党を組んだ女子と一人の男子では前者の方が遙かに強力なのだ。
「…き、気持ちだけ有難く受け取っておくわ」
「そお?」と同級生は至極残念そうに言った。誇張表現じゃない。超々々々残念そう。
「あ、そうだ。因みに私たちクラスの男子にちょっとしたもの配るからさ、楽しみにしてて」
「ん、わかった」
短く返事をすると、努めて早足で立ち去ることにした。調理部の彼女は喋り足りなさそうな雰囲気だったが、敢えて気付かないふりをさせて頂いた。俺にとってはあらゆる意味で地雷の話題だからだ。
ドアを閉め際、「大江じゃなくて、やっぱり特進科のさあ、あっちだよ。いるじゃん、ほら背の高いさぁ…」なんて噂話が耳へ届いた。
だからそいつもどいつも違うって言ってんだろ!
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