黒澤 備の場合(3)
「夕食…どうする」
「うーん、正直まだそこまで腹減ってないなあ…」
漫然と歩みを進めて、百貨店の前を通りすぎたあたりだった。ただでさえ多い人混みが、さらに密集している。視線を遣れば、『バレンタイン特設会場』と銘打った巨大な看板があった。無難な選択が出来るので何をするにも楽な場所だが、今日に限っては避けた方が良さそうだった。
さりとて、どうしたものか。此処まで来て、コンビニエンスストアで板チョコレートを購入し、帰宅、というのはあまりにも芸がなさ過ぎる気がする。希望が無い様子の斎藤に、ただ希望を聞くのも違うような気がして来た。
このままずっと歩けばアーケードを出て、港の方角へ出てしまう。自然に足の運びが鈍重になり始める。
「うぉーい」
「………」
「うぉーい、間男feat.サイトー!」
向こうから人を掻き分け掻き分け、近付いてくる男が見える。声にも、顔にも覚えがあった。
自分で反応をする前に、斎藤を見下ろしてしまったのはある種の配慮だ。俺が生半に手を挙げていい相手とは思えない。
案の定、
「……無視していい、黒澤」
「シカトかあ−!むしろ放置プレイかー!!」
「だぁあああ、うるせえ!黙れこの歩くシモネタ男!」
無視をしろ、と言っておいて、あっさりと禁を破ったのは彼の方だった。まあ、こうなるとは思っていたのだが。
下宿でもみ合っていた時以上の疲労感を滲ませながら、まるで俺を庇うかのように斎藤は目の前に立ち塞がった。キャスケットがわなわなと震えて見える。彼の視線が向かっているであろう先を、自分も見遣る。
喧噪以上に賑やかな存在がこちらを目指して近付いてくる、その方角を。
××××××××
並み居るカップルを意図的に引き裂くようにしてやってきたその男は、確か、新蒔と言った筈だ。斎藤と、大江と、皆川の友人。俺にとっては知人といったところか。
派手なシャツやアクセサリーや、ぐしゃぐしゃに着崩した制服をいつも着ている彼が、今日はギャルソンのような服装をしていた。開襟シャツに、背面が短い燕尾になっている黒いサテンのベスト、同色のスラックス、カフェエプロン。黒と金の入り交じった長髪がしっかり引っ詰められて後ろで一つ結びにしてある。
馬子にも衣装、とはよく聞くが、随分印象が変わって見える。瞬きを繰り返しながら彼を見下ろした。斎藤も呆気に取られたようで、言葉も無い。
新蒔は俺たちの前でぴたりと停止し、じろじろと眺め回してきた。
「おいおい、バレンタインデートかぁ?旦那はどうした旦那は」
「旦那だぁ…?」
「大江なら下宿だ」
途端、脇腹に手刀が入った。痛みはないが、流石に驚いた。
「そこ、答えない!」と斎藤に叱責されてしまう。
「…いいじゃん、フリンかつ虹色の青春じゃーん。しょうがねえ、今日のことは黙って置いてやるから、これ一つ貸しな。二人で二つ貸しっ」
「……」
最近、皆川の思考や口調がこの男に洗脳されている気がしてならない。いや、皆川が新蒔に影響を与えているのか?何やら符号するところがあるような。
いい加減話題を逸らしたいらしい斎藤は、あからさまな仏頂面で言った。
「お前は一体何してんの」
「え、オレ?バイト。日雇いの奴。最近流行の執事みたいで萌えるだろ。こんな格好が赦されるのも、オレが男前であることの証明さ…」とその場で一回転して見せる。
しかも指をパチンと鳴らすおまけつき。実に器用な男だ。「…惚れるなよ」
「バルス」
「え、なになに?」
「……?」
俯く斎藤の呟きは俺にも理解できなかったが、苦虫を噛み潰したような顔の、その心情は理解できた。面倒臭いのに捕まってしまった、とでも思っているのだろう。きちんと話せば回避するとっかかりくらいはあるとは思うのだが。きっかけらしい事が出来ればと、新蒔が腕に抱えたチラシに話題を振ることにする。
「…その、チラシ」
「あ、あーあ、これ?流石間男、目聡いなあ!」
「黒澤だ」
「やーな、これな、限定スイーツの販促なんだよ。バレンタインのやつ。そだ、今くらいなら席空いてると思うから行ってみぃよ、店。このチラシに割引ついてっから」
「………」
「オレはチラシが減る、お前らは金が安く済む、二兎追う者は一斗樽だ。ほい、これやる!」
「出たよ林脳…」と斎藤がぼそぼそとごちている。ああ、確かに似ているかもしれない。
「間男。受け取れ。お前が使うことに意味がある」
胸にくしゃり、と紙が押し付けられる。
「お前はオレのストライクゾーンからは相当ずれてるからな、まあこれくらいで充分、むしろ充分過ぎるくらいだな。バレンタインだけに鼻血大サービスって感じ?」
「………」
「黒澤が羨ましい」と斎藤。
友人の声に剣呑さが目立ってきたので、だらりと垂れたその手を取り上げた。
しばしば、大江がこうして、無理にでも引き摺っていく様を思い出す。取りあえず立ち去った方が良さそうだ。これ以上疲弊させたくはなかった。新蒔も仕事中なのであれば、深追いはして来ないだろう。
「……ありがとう」
「おう!これで三つ貸しだな!」
「……」
「そーだ。アリテルに伝えとけ、えー、ホワイトデーは三倍返しな!四露死苦!」
礼を言うべきでは無かったのか、悩ましいところだ。
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