黒澤 備の場合(2)
「…黒澤、それ、どした」
「……なにか、まずいか」
頭の天辺から爪先までを何遍も眺められて流石にたじろいだ。つられて、何か問題があるのかと全身を確認してみる。
皆川に忠告されたように、小津さんの部屋脇にある洗濯場から外に出ることにしたのは良かったが、迎えがてらに斎藤の部屋をノックしたら、出てきた彼は何故か呆気に取られた様子だ。
おかしな格好をしているだろうか。黒いジャケットにタイ、サーモンピンクのベストと、デニムのパンツ。ごく普通の服装だと思う。
斎藤自身は制服のままだった。普通科の制服規則は割合と緩やかで自由が利くらしい。学ランは無しで、シャツの上からたっぷりとした、紺色のセーターを着込んでいる。少し大きめなのが着られているようで可愛らしい。
和みつつ見下ろしていたら、斎藤は少しだけ顰め面になった後で、「ちょっと待って」と言った。頷き、大人しく扉の前に立つ。
じきに、肩口の広いシャツと、薄手のニットを二段重ねで着、ジーンズを穿いた斎藤がコート片手に現れた。茶色の髪が唾の狭い、キャスケットに似た帽子から零れている。慌てて着替えたようで、済まない気分になった。そのままでも充分だったのに。
「…何処に行く」
「んー、思いつかないけれど…」と彼は苦笑する。「黒澤のその格好だと、遠出でもいいかも」
「街の方でも行くか」
「うん」
「…これ」とスニーカーを差し出した。友人は小首を傾げる。
「靴?」
「洗濯場から出る」
「あー…。あー、うん、成る程。わかった」
スニーカーを受け取る白皙の、その上に、紗のように張る翳を捜した。…今日は大分、調子がいいみたいだ。顔色が悪ければ、休ませようと思っていたから、安堵する。俺の考えを知ることなく、斎藤はさっさと水場の脇の、階段を降りかけている。
「黒澤ぁ!どうしたー?」
「いや、…悪い。すぐに行く」
そうして、俺と彼とは出かけたのだった。
××××××××
斎藤への恋心を自覚したのは梅雨が迫る時期のことだ。でも、気が付いたと同時に俺は躊躇った。大江が斎藤に寄せる気持ちは誰の目から見ても明らかで、かつ、想ったひとは夏の前後、念願のアルバイトを始めてからと言うものの、転石のように調子を崩しているようだったから。男からの告白なんて、面倒な荷重を背負わせることは出来なかった。
大江はいい。幼馴染みだし、斎藤も気を許している。でも、俺は。
「うわ、なんか人、多いな」
「ああ…」
バレンタインの前日ということもあってか、到着した中心街のアーケードは結構な人出だった。華やかな服装の女性や、小ぶりの紙袋を携えた男性が仲睦まじげに歩いている。
そして圧倒的に多いのは、大きな荷物を肩から提げた女性たち。本番は明日、というところなのだろう。行き交う客の頭上には金色のモールや派手な幕がつり下げてある。街のアピールが書かれているものが少し、以外の殆どが『St.valentine』一色。アーケード街全体がひとつの生き物のように、ざわめいている印象すらある。
脇を歩く小さなからだは、向かいから人がやってくるたびに押し出されたり、変な方角へよろけたりしている。見かねて、モッズコートの袖を掴んだ。
「斎藤、離れるな」
「オッケ…、って」
腕にばしり、と衝撃。頬をふうっと膨らませて、こちらを睨んでくる。
「子ども扱いすんな。…なんか、黒澤相手だとハイハイ言っちゃうんだよな、何となく」
「…はは」
その『何となく』の理由が聞きたいような、聞きたくないような複雑な気分だ。以前、彼の兄に似ているのだ、と聞いた。一度だけ逢ったことがあるそのひとは、正直、己と似ているとは思えなかったけれど。
ただポジションとして『兄』の立ち位置では元より無いも同然の希望が、完全に消えてしまうみたいで厭だ。それくらいの執着は、当然、ある。
「それにしても、何処に行くか」
何処も彼処も人だらけだ。時間的には夕食にまだ早い頃合い。何か見たいものはあるか、と問えば、斎藤は喉を震わせて笑った。
「…バレンタインの菓子、買いに来たんだったよな、そういえば」
「ああ」少し考えて付け足す。「…大江も言っていたけれど。費用は俺が持つ」
「…あー…」
ばつが悪そうに呻く彼に、内心密かにひやりとしていた。そうだ。当初の目的を忘れるところだった。つい出掛ける、と思いついたら、次には身支度を調えて連れ出すことのみに考えがシフトしていた。高揚感。浮ついている。そんな言葉ばかりが浮かんでくる。それでも後悔はしていない。
「…楽しそう、黒澤」
「…えっ」
「…ははは、何か困った顔してるし」と斎藤は笑う。「今日、ちょっといつもと違うよな」
「そうだろうか」
「うん、何だかユキやみなのノリが伝染している感じ」
「……」
「不本意」
「…読まないでくれ」
そうしても今更なのだが、手で顔の下半分を覆った。
鉄面皮だの無表情だのと良く言われるけれど、このひとは良く、己の考えを言い当ててくると思う。付き合っている内、先の評価が余程間違いなのでは、と疑念を抱けてしまうくらいに。そんなところも好きだ。俺を理解してくれようとしている。兄の代替でもなく、黒澤の裔というレッテルも無しに。
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