黒澤 備の場合(1)



【黒澤】

「黒澤にする」

あの琥珀に似た双眸が見上げて口にしたのが、自分の名前だと―――理解が追いつくのに数秒を要した。硬直したまま相手を凝視していると、「おい」と脇腹を肘で小突かれる。

「テメェだテメェ。聞いてんのか」

隣で立っていた伴が呆れたように言う。途端、周囲の音が一気に還流してきた。何か大きなものが床に頽れる音、低い悲鳴、振り切れたような笑い声。

「ええー!そこは僕でしょー!斗与のKY!」
「アッハハハハ、ふられたもん同士仲良くしよーぜ、大江!ほれ、法隆も!」
「ウゼぇ!触んな!」

何が嬉しいのか、皆川は妙に騒がしい。厭がる伴と、しゃがんだままの大江に腕を回し「仲間仲間」と振り回している。
嘆息の後、斎藤は床に放り出していたバッグを拾い上げてよろよろと階段に向かった。

「斎藤」
「ん、」

振り返る彼に近寄り、腕時計を確認する。騒いで居る内に早五時近くだ。今からならば、何処まで行けるだろうか。

「何時にする」
「あ…」彼はぱっと目を見開いて、「…じゃあ、五時…五分くらいに、玄関で待ち合わせでいい?」
「構わない」
「じゃ、あとで」

たんたんたん、と軽い足音が段を上っていく。自分もさっさと着替えなければ、と友人の後を追おうとすると、絶望を体現したような叫びが背後から聞こえてきた。慌てて振り返ると、大江と、それに負ぶさるようにしている皆川が親子亀のように仲良くじゃれている。

「ええ!なんで!なんでそんな超展開になるの?!僕だったら『却下』『ねむい』で絶対終わるのにぃい!」
「俺は今、ものすごーく円滑なデートの誘い方を見た!この天然タラシめ!備ちゃーん、やるじゃなーい」
「ハッ。付き合って損したぜ…」

ぎいぎい階段を軋ませて、横を伴が上って行く。刃の切っ先で成形したような目が俺を射貫いた。薄い口脣が捲れ上がると、鋭い犬歯が覗く。

「…てめぇももっと、アイツがマジギレするようなことやれよ。目の前で犯るとかよ」
「………」
「……くだらねえ」

立ち去る細身の背中をぼんやり眺める。別に大江を怒らせる為に参加したわけじゃない。
すると階下から名を呼ばわる声がした。
皆川が苦笑いながら、長身の友人を足止めしている。若干押し返されている感は否めない。圧倒的な馬力と身長の差が為せる技だ。

「大江のことは俺が何とかするから、お前洗濯場から出ろ!な!」
「……」

そうした方がいいのだろうか。確かに大江の目つきは少し心配な具合だ。申し訳ないと思う一方で、斎藤に選択が委ねられていた場において、自分が選ばれたことに密かな喜びもある。
皆川に言われるがまま玄関から斎藤のスニーカーを拾う。こと、こういった事には気が回らないのが自分の難点だ。春先に比べれば随分改善されたとは思うけれども。
手にした靴は女性のそれからすれば大きいが、俺のものと比べて随分に小さかった。

「皆川君、放して!黒澤君と直談判する!!」
「お前も男なら素直に負けを認めなさい!」
「………」

得手不得手はどうしたってあるものだ。済まない、皆川。後は任せる。



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