大江由旗の場合(4)



10センチ程度の延長線上に大好きなひとの顔がある、というシュチュエーションはやっぱりドキドキする。このベッドの上で、斗与がうっかり寝過ごしてしまったり、僕が構って欲しさに引っ張り込んだ結果、もっと近い距離で接したことは、そりゃ、あるんだけど。斗与はいつも通りの透徹とした瞳を僕に向け、チョコが掛かっている方の先っぽに齧り付いた。

「一本だけ、だから」と斗与は念を押すようにして言う。
「うん…」

せめて二本とか…いや、一袋とかにしておけば良かった、と己の浅はかさを呪う。僕の馬鹿。考え無しめ。

「ほら、行くぞ。せぇの…」
「……っ!」

かりかりかり、と断続的な、栗鼠が木の実を囓るような音が迫ってくる。自分に悪態を吐くのを止め、正面へ意識を戻すと、今度は躊躇いなく、斗与がプレッツェルを食べ勧めていく様がかぶりつきで見られた。
標的を逃さないようにと、伏せ目がちになった双眸はひたすらお菓子に注がれている。睫毛の奥の蜂蜜色は真剣そのもの。口脣をやや突き出すようにしているのは、プレッツェルを支えんとする無意識の動きなのだろうが、キスを強請っている様にも似て、僕の心拍数はさらに早くなる。すべて自分自身がし向けたこととは言え、現実に目の当たりにした眺めはとんでもない破壊力があった。

(「うう…、なんだこの生き物は…」)

元より、ひとつのことに集中すると他のことが疎かになる性質なのだ、彼は。
今だって、食べた先のことがすっぽ抜けて、バランスよくお菓子を削っていくことにウェイトが傾いている。噛み合わされる歯の向こうにちらちらと蠢く舌肉を引っ張り出して、食らいついて、むしろそちらを咀嚼して嚥下してしまいたい。

―――…でも、出来ない。


「…!――…あっ」



ぱきん、と乾いた音と共に、二人を繋ぐ橋はへし折れた。

折ったのは、――――斗与。

大口を開けた僕が地道に食べ進めていた彼の寸前まで一足飛びに噛みついたのだ。びっくりした斗与は前歯をギロチンのように落としてしまった。
口腔に収めたミルクチョコを味わいながら、僕は笑う。

「…僕の勝ち」
「……勝ち負け関係ないだろ、別に」
「まあ、ね」
「……」

ここで熱くなってしまうと、却って彼は冷めてしまう。平静を装えば負けず嫌いの斗与のこと、乗っかってくるに決まっている。口脣のふちに付いたクッキー地の粉を指先で拭い取ってやったら、大仰にはたかれた。

「もう満足だろ」
「うーん、…そうだな…。うん、僕の分は」
「はぁ?」
「僕も君にあげたい、って言ったでしょう」言いながら、空いた袋から二本目を取り出して、彼へと差し出す。「はい、これ。斗与に。ハッピーバレンタイン」

口に咥えて突き出そうかとも思ったけれど、やっぱりやめにした。多分やったら殴られて終わりそうだし、ちょっとお膳立てし過ぎな気もするから。
斗与は、考えているようだった。瞬きもせず、弄うように揺れるプレッツェルの突端と僕とに、凝と視線を注いでいる。それが、ぱっと、ぶれた。

「え」

あ、と思った時には、彼の顔は僕の手元にあった。これはまず錯覚なんだけれど、スローモーションで斗与の口が開き、突き出したお菓子を、指ごとぱくり、とやった。人差し指の爪先に、エナメル質がかちり、と噛み合わさった音、それから柔らかく、温く、濡れた感触が。

「ユキの癖に、これで充分だ。お前なんて」
「え、え、」
「ふん」

這い蹲っていた姿勢から、細い上体が一息に跳ね上がる。

「ハッピー、バレンタイン。…おら、ゆってやったぞ。満足?」
「えっ、うん、はい」
「結構。…突然だけれど俺は物凄く眠い。とんでもなく眠い。だからこれから寝るから、ユキは部屋を出るか、音も無く過ごすかの二択を選べ。因みにここで寝る。拒否権は無し。いいな!」
「は…い」
「ん、」

むすっとした表情と、先のややとんがった所まで赤く染まった耳と、打って変わって逸らされっぱなしの視線が彼の居たたまれなさを雄弁に物語っていた。でかい重しが居るにも関わらず、無理矢理布団の上掛けを剥ぐと、ごそごそと中へ潜り込んでいく。勿論、ここは僕のベッドです。
一方の僕はと言えば、正座をしたまま完全に凍り付いていた。
四つん這いで上目遣いで、僕の指を舐める(一部誇張表現)、斗与。しなる肩、背中からお尻までの滑らかなライン、棒状のものに舌を這わす仕草。ああ、どうして人間には不確かな録画機能しか付いていないんだろう!僕の限りある脳組織の、絶対上書き保存不可の領域に今の映像を焼き付けておくことが出来たなら、一生後悔しないのに!


その後、眠いと言った割には「静かにして」だの「黙れ」だのと難癖を付けてくる斗与の横で、僕はにこにこと残りのプレッツェルを平らげることに終始した。妄想の半分くらいは駄々漏れだったらしくて、終いには約二袋分を一気に口へ突っ込まれるというお仕置きもあったが、…悔いは無い。天神様にチョコをお供えした甲斐があった。来年も欠かさずお参りをしようと決意する。宗教の違いなんて些細なものだ。

「あ、そうだ。ねえ斗与、ホワイトデーだけど…っ、い、痛い痛い髪、髪っ引っ張らないでえ!」
「うるさいよおまえ」



取りあえずは神様、どうか、ホワイトデーもこのひとと過ごせますように。



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