(9)



俺と斎藤とは、満潮でへりの近くまでせり上がってきた川を隣に、てくてくと坂を下っていく。石造りの古い橋を過ぎ、小さな社を過ぎ、まだ人気のあった所からあっという間に眠りを控えた住宅街の方へ入り込む。
気温は低いが、風はほとんど無い。黒い水面の上で、人工の明かりが楕円の形にたゆたっていた。

「…ええとな、他の奴にはまだ言ってないんだけど…」
「…え?」

作ったような自分の声が、妙に笑えて仕方がなかった―――それでも。

少しは消沈してくれている風のある、彼の姿に後押しされて、俺はぎこちなく口を動かした。
以前、斎藤には話したことがある「願掛け」のこと。

「もし、日夏大に合格したら…、特別に、あそこ残って良い、って言われてるんだ」

大半の下宿生は三年の夏であそこを引き払う。もしその後居たとしても、この時期か――2月の末には撤収だ。
大江家は高校生向けの下宿だから、独立した台所を備えた1階の貸し家はともかくとして、2階の部屋に大学生を入れることはそうは、ないらしい。
大体、あの下宿から近い大学なんて日夏大しかないし、3年間下宿生活をしたら、ほとんどの奴が完全な一人暮らしに憧れる。面倒の無い実家に戻る奴だっているだろう。
何せ大江の家といったら、プライバシーは耳の垢ほど、大家のおばさんは怖いし、飯はそんなにうまいわけでもない。こと、最近にいたっては同居人の顔ぶれが個性強すぎ。

それでも、俺は。

「…あそこ、気に入ってるからさ。大学からは近いし、家賃だって安いし。出来ることならもうすこし、居ようと思ってる」

斎藤の反応を知りたいような、――知りたくないような気分で、冷たい空気に鼻先を晒しながら、俺は前だけを見ていた。緩やかだった勾配は二本目の橋を通り過ぎたあたりで深く下っている。

そこを進めば、ぼろっちくも愛すべき第二の我が家がある。
俺の隣には変態が連鎖で住んでいて、他の連中だとて年長を敬う文化を忌避してんのか、ってくらいの態度だ。意地でも先輩扱いしないぞ、という意気が充ち満ちているのは、決して被害妄想じゃないと思う。
ただ、自室の向かいに暮らすひとりの存在で、悩んだり、ちょっと幸せになれたりしている、そんなばかばかしくもあたたかい場所。

「…だから…っ!?」
「…は、あははは…!」

ぼす、と背中に柔らかな衝撃があった。首を捻って振り返れば、きらきらと瞳を輝かせた斎藤の姿が。肘から下の部分全体で、俺の背を軽くはたいている、

――――笑ってる。

「それっ、林先輩たちに言ったら大騒ぎですね!」
「……っ…」
「絶対、3月まで内緒にした方がいいですよ!うわ、想像しただけで涙出てきた…」

ぐっと擦られる目元は確かに潤んでいた。暗がりでも、上下する睫毛が水分を含んでいるのが分かってしまう。一世一代の告白を笑いのネタにされて、俺はげっそりと溜息を吐いた。

「…だからあいつらには言いたくないんだ。念には念を入れて、おばさんには孫にすら黙って貰ってるんだから…」
「じゃあ、ユキもしらないんだ!」
「あー知らない知らない。見目の野郎もしらない。多分小津さんもしらない」

院生の小津さんがその最初にして、唯一の前例だと知って、大家に土下座で頼んだのは二年生になる手前の春―――俺が、日夏大に進学希望を決めたとき、そして林のアホンダラが入居する前のことだ。あのときの俺はまだ希望に胸を膨らませ、将来に夢を見ていた。
その後の戦いの日々を走馬燈のように思い返していると、軽やかな斎藤の声が耳をノックした。

「じゃあ、秘密ですね」
「…へ?」
「秘密、でしょう?」

林先輩たち、きっと驚くだろうなあ、と楽しげに喉を鳴らす彼からは、薄く紗のように纏わり付く翳が奇麗に失せている。
どこにでもいるような、でも、不思議と目の離せない二級下の後輩は俺の隣で確かに笑っている。透明なんかじゃない、儚くもない。当たり前にちゃんと存在している。

マフラーがきついのか、息がどうして、苦しい。けれど黙り込んで彼を誤解させたりしたくなくて、俺は震える声で「ああ」と返した。

「…そう、だな」
「はいっ」

自分と、彼との。短い間だけれども、―――2人だけの秘密だ。



程なくして、親しげに押し付けられた後輩の体温に俺が奇声を上げるまでの間、俺と斎藤の珍しくも穏やかな時間はゆっくりと過ぎていった。





映画も買い物も、肝心のイルミネーションすらない、たった二時間の破綻したコースを、けれど、しばらくの俺は名状しがたい気持ちと共に反芻するだろう。
部屋の中では素足派で、身体の割には良く喰うこと、食べ方は相当男らしいこと。すぐ人を叩く癖、笑い上戸。知らなかった彼を、たくさん知った日だから。

さて、左可井には何と報告しようか。
意外と定食屋でもいけるもんだぜ、と言ってやろう。
それから二回目のデートの、うまい誘い方でもご教授願うとするか。




(「……デート?」)




―――…あれ、またなんかまちがえたか?



>>>secret×secret!


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