(8)
「せんぱい、」と俺を呼ぶ斎藤の声がする。びく、と肩を揺らしてから、恐る恐る見上げた先には、ひたすら瞬きを繰り返す彼の姿があった。こちらは箸と飯茶碗を左右の手にしっかり持ったままだ。何か喋らないと、何か、何か!
飲み下した唾液が固体のように、喉をむりくり降りていく。自分の耳には、ごきゅり、と嚥下の音がでかく響いた。
「…お、おべんとついてた…」
掠れた上に情けなさ満点の声で、俺は言った。事実を伝えただけの筈が、今度は何故か弁解じみて聞こえる。
「おべんと?」
「米、が、だな、斎藤の、こう、ここにだな…」
「え、ど、どこですか?」
「今はついてない…」
「あ、そうですか」
「……」
「……」
ああ、この沈黙…。実に気まずい…。
斎藤と何処かへ出かけるシミュレーションは数限りなく行ったけれど、全てのパターンにおいて考えられた展開がこれだ。
大体俺は皆川みたいに口がうまくないし、黒澤のように何を語らずとも赦される雰囲気を持っている訳でもない。一度紙に乗せて、幾度も推敲した事ならそれなりに自信があるけれど、アドリブとか出たとこ勝負の類はからっきし駄目なんだ。
「――――あの、」
ほんの数分にも、随分と時間が経過したようにも思えた後で、先に口を開いたのは斎藤の方だった。年上の威厳もなく、俺は最後通牒を受け取る気分で、次の言葉を待った。
変人は人間だからまだ我慢出来る。が、変態だ、なんてレッテルを斎藤に付けられたら、俺はこの先どうやっていけばいいんだ。イルミネーションなんて夢の又夢だ…。
「な、なに」
「あ、ありがとう、ございます…」
――――……さいとう。
少し照れたような、はにかんだ微笑み。優しく細められた目尻と、きゅ、と上がった口脣の端に、俺は見惚れた。背景は板張りに砂壁、照明は学校の天井にくっついているのと似たり寄ったりの、長い棒の蛍光灯だ。情緒のじの字も無い。
それでも、栗色の髪持つ華奢な体躯の彼の、その姿と声とが、
胸を掻きむしるような想いに俺を落とし込んだ。
「……いや、どういたしまして…」
一口分残しておいた、油揚げとわかめの味噌汁の上に白い何かが浮かんでいたけれど、俺は敢えて見ない振りで啜り上げた。…米一粒の中には7人の神様が住んでいる、って親父は言っていた。食べ物を無駄にしたら駄目だ。うん、駄目なんだから、これは、いいんだ。
「っあー、すげえ喰った−!」
「お前、おかわりとかするのな…」
「しますよ、そりゃあ!」
あれから斎藤はただで出来る飯と味噌汁のおかわりをして、およそ、味のしなくなった献立を消化することに勤めていた俺を仰天させた。
本当に、良く、食べた。
どだい、誘いが失敗(?)した時から飯の味なんて不確かだったけれども、斎藤がうまそうに喰っていたので良しとする。俺の脳味噌は若干の不満を訴えていたが、胃袋の方は物理的に埋まっていたらしい。結局こっちも腹一杯だ。
暖簾を掻き上げて出た外は、時折走り去る車と、商店街沿いの街灯の他は真っ暗闇だった。この辺りは学校が多くて、住宅街も固まったところにあるから、暗い場所と明るい場所が物凄くはっきりと分かれている。
時刻は飯時を少し過ぎた頃合いだ。道路を挟んだ向こう、商店街の人も随分とまばらで、飯屋や惣菜屋の活気が殊更に目立つ。
――寒い。
思わずマフラーを締め直してしまう。斎藤は、と見れば、彼もコートのジッパーを首元まで引き上げて、小さく溜息を吐いていた。…また、視線が合った。
「…ふ、」
何かもう、苦笑しか出ない。
彼の顔には今日、幾度目かの疑問符が浮かんでいるようだった。目が合う、と言うよりは、俺がずっと斎藤を見ているから、彼が時折此方を見遣るとき視線がかち合ってしまうのだ。
当然の、結果。
何故か――ふいに、斎藤が溶けるように相好を崩した。それがあまりに唐突で、でも自然で、――きれいで。言葉を失ってしまう。
「…先輩と、俺って、…こんな風に一緒に飯食いに行くの、初めてでしたね」
「…あ、ああ。…そう、だな」
左可井に説明した通り、如何に一緒に住んでいるとは言え、俺と彼との共通点はあまりに少ない。それにいつもは大江や他の連中と居ることが多い斎藤と、塾三昧、受験勉強三昧な俺とでは時間の合いようが無いのである。それでも確かに、…ただの一度たりとも無かったな。
「生意気言うようだけど、結構楽しかった。…また、行きましょう。せんぱいさえ、よかったら…」
「……」
「あ。でも、もうあんまり、時間が無いのか…」
明るい調子が急に、灯火を吹き消したかのような、頼りなげなものに変わる。歩き出した彼の顔はあまりに近すぎて、少し離れないと伺えない程だ。
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