いつものように



(月下)

普段では考えられないほどの時間を掛けて、なんとかドアの前へと辿り着いた。初めは立ち上がろうとしたのだけれど、やはりと言うか、腰は少しの負荷にも悲鳴をあげた。掌と膝を使って移動し、ドアノブに縋り付いて扉を開く。

「…っ、」

眩しい。暗かった部屋の中に、一気に光が差し込んでくる。
あの暗室に閉じ込められたのはたった数時間のことだろうが、気分的には数日か、一週間ぶりくらいに外界へ出てきたような具合だ。
うっかりと地表に出てしまったもぐらみたいに、僕は目を眇め、刺激を弱めようとした。感覚がおかしくなっているのか、それともセントラルヒーティングなのか、寒さは特に感じない。

ドアの枠を強張った指で掴み、そこを支えにしながらようやく立ち上がった。
天井の壁紙は白く、素足が踏んでいるのはフローリングの廊下で、左手に行った先から下へ向かう階段が続いていた。赤い糸はそこを緩やかに這っていた。

階下の様子は見えない。人の気配はある。壁伝いに手をつきながら進み、階段の手前へ到着したところで一息吐いた。こんな些細な動きすら身体に響く。

ごく普通の――見知らぬ――家だ。でも、僕の予想が確かなら、ここは、


「…あ、起きた?」

「――――!!」


回転率の悪い頭で必死に考えていたら、直線に伸びる段の下にひょい、と人の顔が現れた。手すりの脇から、唐突に。

誰かが居るのは分かっていたけれど、まさかこんなにもすぐに遭遇するだなんて思っていなかった。
だから当然、僕は息を呑んで硬直してしまった。壁へべったりと半身をくっつけた、相当いただけない体勢で相手を凝視する。シューズを見ていた時とは異なる衝撃が、心臓を震わせていた。明るいところも久しぶりだが、白柳、と、久馬以外のひとに会うのも久々に感じたと言ったら、少し大袈裟過ぎるだろうか?

「ちょっとちょっと、顔赤いじゃない。大丈夫?大丈夫な訳ないね」

そのひと―――その、女のひとはきびきびとした動作で階段を上がってきた。
茶色いロングヘアを胸の辺りまで垂らしている。女性の年を、外見から判断することが苦手な僕には、彼女の年齢は分からなかった。二十代ではない、と思う。でも、僕の母よりは若いだろう。
シャープな顔立ちの所為か、きつい印象はあるけれどとてもきれいなひとだ。
背は割と高い方で、身体のラインはすらりとしている。飾り気のないボーダーのカットソーに黒いパンツを穿いていた。

彼女は呆然としている僕を見て、にっこり笑う。吊り目がちな双眸が柔和に細められ、口脣の端が素敵な感じにきゅっと上がった。

「お母さんには連絡してあるから、安心してベッドに戻んなさい」
「えっ、あ、あの…」
「あ、お腹空いた?何か食べとく?」

きらきらした笑顔がさらに明るく輝いた。とても良い思いつきが浮かんだときみたいに。

「うちのバカは牛丼喰いてえとか言ってたから、今牛丼作ってるけどサカシタ君にはちょっと重いでしょう。まったく末恐ろしいわ、夜の十一時に牛丼喰って牛乳1リットル開けちゃってさあ…」
「…う、うちの、バカ…?」
「そう、うちのバカ。小バカと大バカと居てね、旦那も足したらトリプルバカよ。全員エンゲル係数なぞ頭にございません、ってくらいに良く食べるんだ、これが」

我が家を食いつぶす気満々よ、なんて言っている間に、女の人は僕の前に立っていた。
やはり僕とそう大して変わらない身長だった。腰を少し屈めて目線を合わせてくる。

悪戯っぽい表情がだぶって、…眩暈がする。
リアクションも取れず、二の句も告げられないまま見つめ返した。だって、こんな風に、僕に対してにこにこしている「彼」を見たことがないから。…呼吸が怪しくなってきた気がする。

「女の子か、サカシタ君みたいな男の子がもう一人くらいいたらねえ」

不意に、がしゃん、と金属が触れあう音がする。彼女の身体の向こうからだ。
もしも僕が犬や猫であったなら、両の耳は、その音の方向へ傾いていたことだろう。
三和土と靴裏が擦れ合う。床の上に、あたらしく人の体重が乗る。


「…口説いてんじゃねえよ、ババ…じゃない、お袋」


たん、たん、と階段を上るテンポのいい足音がして、

――――――それから。


「あらァ、忍ちゃん。…友達置いて何処ほっつき歩いてんの、このバカ」
「うっせえよ」


ドスの利いた母親の叱責を面倒そうに躱して、彼は、僕らの間へ分け入るように立った。

明るい茶色の短髪。男っぽく整った精悍な容貌は、吊り気味の双眸と不機嫌そうに結ばれた口脣が印象的だ。伸びやかな体躯が纏う衣服の、袖や裾やらは大抵まくられていて、焼けた褐色の膚を見るたびに、劣等感と羨望と、それらを上回る憧れに支配される。
奇妙な懐かしさに、ごちゃごちゃの感情が、身体の、心の奥からこみ上げてきた。…こんな風に、彼と向かい合うことはもうないのだと、思っていたんだ。


何故か部活のジャージに身を包んだ久馬は、軽く首を傾けて僕を確認したあと、

「…おう」

と、言った。
いつものように。





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