エクソダスV





疲労と現実逃避に身を委ねてしまえれば実に楽なんだが、そうは問屋が卸さない。仕方なく黄ばんだ本の山を壁際に押しのけて、重い二重扉を開く。体重を乗っけるようにして押して、戸はようやく開いた。

「…ちょっとばかし、待ってろよ」

振り返って見た、部屋の奥。三日月の形に横たわる人影へ呼びかける。月下は相変わらず固く目を閉じたままだった。あれだけいたぶられた後だ、精神的にもキてるだろうし、多分起きやしないだろう。むしろ起きられたらこっちが困る。暗がりの、誰もいない部屋で目覚めでもしてみろ、あらぬ誤解を抱かれて終わりそうだ。
彼には何の足しにもならないが、オレのベストをシャツの上から羽織らせておいた。月下の為、というよりはオレの自己満足に近いほどの役の立たなさである。一方、ノーシャツノーベスト、上半身はタンクトップだけという出で立ちになったオレは、教師に遭ったら詰問されること請け合いだ。
…しかも寒い。季節は冬、ドアを開けた瞬間廊下の冷気が一気に身体を突き刺してくる。

「…さむ、」

思わず呟きながら、ぎいぎい軋む体躯を叱咤して一歩を踏む。
確かに冷えるが、吸い込んだ空気は清涼で、気管から肺から、オレの中に淀んでいたものをきれいに浚いだしていく。早く月下にも味合わせてやりたい。心の底からそう思う。




共有棟の照明は随分暗くなっていて、遠くの方に緑色の、非常灯がぼんやり浮かんでいるのが見えた。でかい窓の外は既に暗く、階下のグラウンドや通路の脇に立つ明かりが点々と瞬いている。生徒の声は全くしない。人の気配もない。おそらくは下校時刻をとうに過ぎているのだろう。スラックスのポケットをまさぐり、携帯電話を取りだした。デジタルの数字は案の定の、1、9、3、4、だった。教師に遭遇したら、詰問どころか説教間違いなしだな。

(「…お?」)

耐火庫前、生徒会室の室名札にぶらさがった蝙蝠みたいなもんが引っ掛けられている。黒くずるっとしたもの。なんだろう。部屋そのものは真っ暗で、中が無人だと容易に知れた。特に学校行事もない、皆下校した後なんだろう。首を傾げながら近寄っていって、動かない黒の塊を直下から仰いだ。

「…?――…あ、」

慌てて手を伸ばし、引きずり下ろす。何かの目印のように掛けられていたのは、探していた、オレのジャケットだった。
素肌にひんやりと冷たくなった裏生地が擦れるのも構わずに、すぐ袖を通す。うう、つめてえ。でもこれで、くしゃみをしながら走るなんていう醜態を晒さずに済むぜ。すると脇のあたりで、がさり、と乾いた音がした。

「なんだ…?」

照度を落とした蛍光灯のひかりが、セロテープで貼られたルーズリーフを照らしている。やたら堂々とした筆蹟がオレの目を射た。


『久馬へ
 下校時刻を過ぎても戻ってこなかったので、俺の任期中はただ働き決定だ。陸上以外でも学校に貢献できるぞよかったな。まず初めの仕事だが、教職員室または学園の事務局に耐火庫の鍵を必ず帰すこと。それをさぼったら卒業までこき使うからな。覚悟しろよ。   見目   』


「……」 

あいつ。

爽やかな顔で快活に笑う、生徒会長。自分のルールをそうそう曲げない男は、おそらくオレの窮地の詳細を分からぬままに、裁量を変えてくれたのだろう。携帯電話と逆のポケットに入った鍵がふっと重くなった。悪くない重みだ。口の端が自然と緩む。指令書を四角く折り畳んで、鍵と同じところへ突っ込んだ。かしこまりました、ってやつだ。



教室から持ってくる荷物はそれなりの量になった。オレの鞄に始まり、体育で使うスワローカラーのジャージ、陸上部の、群青色のジャージと部活用にと常備している下着、タオルの類だ。泥棒よろしく抜き足差し足で移動し、ロッカーから目当てのものを取り出す。月下本人のやつを持ってこられれば良いのだが、生憎電子錠のキーなど知らん。自分の部活が体育会系で助かった。着替えとタオルと水分だけはいつもしっかりあるからな。

焦っているからか、やたらに時間を喰ったような気がする。はあはあと息を荒がせながら戻ってきた耐火庫で、彼は、オレが出た時と寸分変わらぬ格好で眠り続けていた。
改めて白い貌を見下ろす。魂を込め損ねた人形のように、およそ表情のない寝顔だった。

夢、とか。見ているのだろうか。
疲れも絶望も突き抜けて、ようやく手に入れた安息だ。出来れば夢なぞ見ずに居て欲しいと思う。白柳のことも、―――オレのことも、今は忘れていればいい。どうせ目が醒めたら厭になるほどツラ突き合わせることになるんだからな。

若干の苦労の末、下着を穿かせ、洗濯したての学校指定ジャージを着せた。オレは部活用のを着て、ぼろぼろの制服類を鞄へと突っ込む。おふくろの吠える姿が壮絶なリアリティをもって脳裏に浮かんだ。やべえ、すげえ怖ええ。

「じゃ、帰っか」

返事のないクラスメイトへ呼びかける。大分まともな格好になった月下に革靴を履かせるかどうか、少しの間考えた。

…うん。

小汚い靴下を脱がせる。代わりはこれまた、部活用のソックスだ。足首に浮かぶ赤い索条痕に痛々しさを覚えながら、当座の寒さは防げるだろうと思う。首の後ろを抱え、膝裏へ腕を回す。腰へぐっと力を込めて、痩せた体躯を持ち上げた。

やっぱり、ちゃんと喰わねえからこんなに軽いんだよ、お前は。同世代の男に軽々と抱き上げられるだなんて、オレだったら噴飯モノだぜ、まったく。



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