彼我Y



(月下)


「ほら、解けた」
「……」

縄が解かれた後も、縛られた感覚がすぐに消えることは無かった。先に自由になった手首も含めて、だ。つい、拘束されていた部位を怖々なぞる。何もない。なのに、括られた部分は未だ強張っている。

(「…まだ、いい」)

少しすれば、元に戻るだろう。問題は、躰の奥で籠もっている熱の方だ。
白柳にキスをされて、舌を挿し入れられて。燃えさしを突っ込まれた熾火みたいに、堪えていた欲望が目を醒ました。かき合わせたシャツの下で、浅ましくも僕の牡は半ば勃ち上がったままだった。擦過傷だらけの膝をすり合わせ、腰を屈めて必死にやり過ごす。

白柳に与えられた薬はいつまで効果があるものなんだろう?あれだけ精を吐き出しても、まだ治まらないものなのだろうか。解毒剤が必要とかだったら、どうしよう。

「……」

そんなの、困る。

もう少しの辛抱だ。我慢していればきっと、何とかなる。ここで、呑み込まれるわけにはいかない。言い聞かせなければ、ほんとうに気が狂ってしまいそうだ。


久馬は、僕を背裏へ隠すみたいにして立ちはだかっていた。
ほんとうに、ほんとうに情けなくもほっとする。なくなったのは体躯を戒める縄だけじゃない。突き出した腕を、気持ちを支えていた神経の糸が、ぶつりと切れたように感じる。
誰かに凶器を向けたことなんて、初めてだ。あんな風に刃向かうことだって、記憶があるのはここ最近。恋情を寄せている久馬と、僕を理解してくれていた白柳、その二人に対してなのだからとんだ皮肉だ。

近くで見ると、彼が如何に煤け、痛めつけられて来たのかがよく分かる。
薬の所為なのか、現状の異様さがもたらす混乱の故か、ぼろぼろの後ろ姿を見ているだけでも、目尻で涙が膨れあがる。この手の、情動のアップダウンは僕の容量を遙かに超えている。もしかしたらちょっとしたことでも泣いてしまう状態なのかもしれない。

済まない、申し訳ない、と思う一方で、やはり歓喜している自分がいる。僕を助ける為に来てくれたのだ、という実感がようやくわいてきているあたり、己の疑心暗鬼ぶりには、我ながら、呆れる。
以前とは変化があって、久馬に対する想いを止められない、どうしようもない、という諦め――――開き直りはあったが、隣り合う自己嫌悪もまた、捨てきれなかった。

床へ力なく垂らした、僕の手にスタンガンはもう、ない。先ほど白柳に渡した。もう、大丈夫だと思った。彼はそれをポケットへ仕舞い、久馬の前に立っている。襲える距離だ。でも、「もう、大丈夫」。僕には分かる。白柳は、そんなことはしない。

「さて、」と友人は言った。

「久馬、さぁ」
「…あんだよ」

呼びかけられた側には、まだ幾ばくかの緊張が残っていた。当然と言えば当然だ。少し前まで取っ組み合っていたのだから、いつ何時、急襲されるかと案じる気持ちはある筈だ。
久馬一人であれば、あるいはそこまで警戒しなかったかもしれない。足手纏いの僕がいる為だから、だろう。
せめて彼を安心させる為にも、ぱっと立ち上がってみせることが出来ればいいのだけれど、ちっともうまくいかない。さっきから試しているのに、足の至る所、力が入らなかった。

「幾つか言っておくことがあるから。…まず、俺、明日から校研まで休むわ。折角の奇麗な顔が台無しだ、こんなんじゃクラスメイトの皆々様にもお目にかかれねー」
「…好きにしろクソッタレ」
「そうする」と、白柳は、顔を顰めながらも肩を竦めて見せた。「当日、グループは泰河んとこに潜り込む。ああ、自分で話つけとくんでお前からは何もしなくていいよ」
「……」

黙り込んだ久馬の右の拳が、ぎゅう、と握られる。まるで、逃げるのか、とでも言うように。彼の親友は素早く悟ったらしく、うっすらと笑みを浮かべた。どこまでも白柳らしい、ニヒリスティックな微笑み。


その表情を見た途端、胸が引き絞られるみたいに痛んだ。


彼は物凄い勢いで、平常を構築しようとしている。どこもかしこもぐちゃぐちゃの制服、腫れた頬や切れた口脣の端を除けば、友人の反応はあまりにいつも通りなのだ。

決して自己保身の為なんかじゃない、と思ってしまうのは、買いかぶり過ぎなんだろうか。落ち着かない体躯を持て余しつつも茫然と彼を仰ぐ。白柳は気付いて、くす、と微かな笑声を漏らした。久馬が音を立てて首を鳴らす。相変わらず黙ったままだ。その様子はただ呆れているようにも、何処か、白柳の態度を、予想していたかのようにも見える。


天井の蛍光灯が、じじじ、と啼いた。


「言っておくけど、…逃げる訳じゃないぜ。…真赭の為、ね」
「―――、」

…僕の。

「俺が居たら、色々考えちゃって、倒れでもしかねないからね。そういうのも悪かないけど、今回はやめとく」
「平然と同じ班で行こうとしていたテメェの神経に感心するよ」と、久馬は吐き捨てた。
「寂しい癖に」と白柳。


久馬の応答は―――ない。
代わりに、彼の周囲に張り詰めていた緊張の壁がゆっくりと解けていく。交わす言葉で以て、久馬もまた、努めている。彼と、白柳の「いつも」を取り戻そうとしている。そんな気が、した。


「で。最後。明日から一週間、お前のことシカトする」
「…ほーお」
「言いたいこと言ってもすっきりしねえし、久馬の顔見たら当たり前にムカツクし、つか今でもぶん殴りたいし、惚れた相手には逃げられるし…。何か、俺、超疲れた」
「…そうか」
「そういうこと。以上」

これでもやっぱりすっきりしない、とごちて、それから、「真赭、」と。僕の名前を呼んだ。
思わずびくり、と躰が震える。頭は大丈夫だ、と理解しているのに、身体の方がまだ、警戒をしている気がする。
やはり僕では、久馬と同じようにはいかないみたいだ。

「…な、に…」

でも、これ以上、白柳に甘えるわけにはいかない。きちんと、応えなくちゃ。
かろうじて返事をすると、友人は僅かに首を傾いでこちらへ視線を落とした。磁器のように薄い口脣が僅かに開き、閉じた。

「うん…」
「……?」

そう、一言、言って。きり、と口の端が吊り上がっていく。

(「……!」)

幾度、その表情を見たことだろう。
眼鏡を失った切れ長の双眸、湛えられた感情に背筋が泡立ち、釘付けになる。
寒いのに、熱い。冷たい床の感触だけが頼りだ。足元から煮え崩れてしまいそう。かちかちと妙な音がしている。


僕の、歯が恐怖に鳴る音、だった。


「――――楽にしてあげられなくて、ごめんね」

「…っ、」

恐れることなんて何もない。僕は白柳を信頼している。
例え彼の立つ汀(みぎわ)がどんなに暗くても、彼の言う一番の安楽が「僕自身」の消失を意味するのだとしても、

白柳が未だ、それを諦めていないのだと、知っていても。


じく、と痛みを訴えたのは何処だろう。心臓?縛られた痕?それとも、


(「―――――左足?」)


「ごめんで済んだら警察いらねえんだよッ!」
「ぐあッ!」


黙して様子を見ていた久馬が、素晴らしい速さと威力で親友を殴り倒して。見事に(そして再び)吹っ飛んだ白柳が本の山に叩きつけられて。
口汚く罵り合いながら、友人が部屋を追い出されていくのを僕は虚ろな意識で見送っていた。ぐいぐいと押されていることもあってか、彼は振り返らなかった。

眼球から視覚野までを蛇の舌でざらりとやられた感触だけが残っている。浸食の予感。
あともう一歩、某かのきっかけさえあれば、多分、僕は絡め取られていた。
その道は、僕が躊躇った方角へ延びていた筈だ。






じきに喧噪は収まった。
視界は暗いままだ。散乱する本、奇妙な道具たち、放り出された、僕の革靴。

「…おい」
「……」
「…おい、月下。飛ぶんじゃねえ。起きろ」

頬を、はたはたと叩かれている。覗き込んでいるのは、淡褐色の膚をした精悍な顔。心配そうに歪んでいる。
きゅうま、と口脣を動かすと、彼は頷いた。

「終わったんだ」

終わった。

「もう、大丈夫だ」
「…だいじょう、ぶ」
「……ああ」

ずっと、言い聞かせてきた。そして誰かの声で聞きたかった。出来ることなら、僕を緩やかに抱きしめてくれているこのひとの声で。




…終わったのだ。






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