糸とこころとW



駄目、絶対に、駄目だ。

僕の頭の中はその一言で埋め尽くされていた。黒みを増した、久馬の足の縄。看過したら、どうなる?

(「分からない」)

どれもこれも初体験で、何が起きているのか、事態は理解や経験の範疇外だ。
もしかしたら、半ば混乱していたのかもしれない、
――――いや、間違いなく、していた。ちゃんとした思考など、望むべくもなかった。白柳に与えられた責めで、身体はガタガタ、物事の意味やかたちを捉える器官は、熱にやられて真っ白だ。目に見えているからって、触れない縄を掴もうとするあたり、既に終わっている。

でも、とにかく僕は必死だった。
かりそめの恋人は得心したように微笑んでいた。
黒い、黒い縄の話。…彼が僕を信じた理由を。友人はまともじゃない、と自らを言ったのだ。

世の人々がどういうかは置いて、僕に判断は、…出来ない。
ただ、彼と一緒に過ごした短い時間は確かに、安らいで穏やかだった。相手の存在をごく自然に受け入れ、素直に対話ができた。時折、あてられる欲を除いては、すべてが静止していた。白柳が僕に強いた行為を糾弾するつもりはない。もしあれが間違いなら、悦んだ自分だって、共犯だ。


だったら、何故焦るんだ?
白柳であれば良くて、…久馬だったら駄目なのか?
結局は、彼のことを異常者だと認めたことにはなりはしないか?
それとも、もっと浅ましい理由の故か。己と、久馬の縄が切れることを恐怖したのか。


黒い縄は相手を持たないしるしなのかもしれない。誰にも辿り着かない想い。「独り善がり」。
仮定が正しければ、突然、変色した原因は分からなくても、結果は明白だ。

僕と久馬の繋がりは、切れる。数少なく、僕らを結んでいた関係は終わる。久馬への気持ちを自覚してからこちら、ずっと恐れていたことだ。


様々な思いが、考えが、洗濯機のように、ぐるぐると回る。


縄は切れるかもしれない。糸のちからが失われて、彼に見向きもされなくなるのかも。
でも、そんなのって今更じゃないか。
見られてはならない姿を、見られた。弱さの証だ。嫌われる要素ならば、このいっときにこれでもかというほど凝縮している。
でも、久馬は見捨てることをしなかった。認めている奴なんだ、と明言した親友を傷付けてすら、僕を庇おうとしてくれている。何のメリットもないのに。

そう、予想だにしない好意をもって、彼は僕を助けに来てくれたのだ。
あまつさえ「好きだ」なんて、嘘までついて。幾度生まれ変わっても聞けそうもない冗談だ。


だったらもう、充分じゃないか?


約束は反故になるだろう。関係は、引いた縄の感触を最後にして終わる。
だとしても、久馬と白柳が―――久馬が、我を忘れるほどに親友へ凶行を振るうだなんてこと、あってはならない。絶対に。絶対に、駄目なんだ。


「うっ…!」

鬱血しかけて、斑の浮いた手でもって、力一杯縄を引っ張る。
肩胛骨のあたりを強かに打ったが、痛みは感じなかった。重い手応えがあって、叫び声と、ざざざざ、と何かが滑り落ちる音が聞こえてくる。
両の腿を括られたままだった僕は、崩れた正座をした状態で後方へでんぐり返る姿勢になった。苦しかったけれど、これも苦痛の芯が何処にあるのか、捉えられないようなぼんやりさ加減だった。内外を問わず、感覚器官が鈍く、緩くなっていたのだろう。

「っあ、っ…う、っあ…ッ」

その証拠か、涙腺までもが一気に緩んだ。涙がぼろぼろと転がり落ちてくる。視界は磨りの荒い硝子の向こうに居るみたいだ。本を巻き添えに引き倒された久馬が、飛び起きる姿も何となくしか分からない。

「痛い!なんなんだ!」
「久馬…っ!」

思わず彼の名前を呼ぶ。

(「早く、急いで起きるんだ!」)

床を手でぴしゃぴしゃ叩き、肩肘に寄りかかるようにして躰を起こす。折り畳まれた脚を引きずり、膝をつく。
止められた?間に合ったのか?白柳の様子までは見えないんだ。
動け、僕の身体。目もちゃんと、伝えてくれ。鬱陶しく泣いている場合か!

「駄目…ッ!…っう、だ、駄目なんだ!久馬…!」

君はそんなことしちゃいけない。する理由もない!

君の目の前にいるひとは、大切な親友で、どんなに諍いを起こしてきてもずっと繋がりを守ってきた相手なんだ。絶対に忘れちゃいけない。
それは君と僕を繋ぐ糸なんかよりも、余程大事なものだ。時間と言葉と信頼で依り合わさった、簡単には手に入らないものなんだ。

肌色と乳白色が混ざり合い、黒くベストの形に切り抜かれた影が、こちらを振り返って、停止した。

「…、…あ、オレ…」

およそ、彼らしからぬ気の抜けた声だった。でも、確かに久馬だった。寸前までの、温度無い声音で、氷のような目つきで白柳をいたぶっていた人物は、霧消していた。憑き物が落ちた、という表現がまさに相応しいかった。

(「…かえってきた」)

先程の彼も、久馬という男の一面なんだろう。
だけど、僕は心底安堵した。ほっとした。目の前で、彼自らが、己を構成する要素を壊そうとしているようで、すごく怖かった。
怖かった、と思って、ようやく気付いた。


赤い糸を切りたくないのも、白柳を守りたいのも、答え。
そして、久馬忍というひとにあんな凍えた表情をさせたくなかったのも、また解なんだ。

…どうしていつも、僕は遅いんだろう。自分を守ろうとして回り道ばかりだ。
理解が追いついた頃には多くを失っている。

(「…でも、…分かったから、いいや…」)

分からないよりは。弱さに目を逸らすよりは。失してしまっても、気持ちに、ちゃんと向き合えたから。

きっと、今までよりは、ずっといい。



安心感と、悲しさと、…自分の馬鹿さ加減に涙が止まらなくなった。
結局どうあっても久馬が好きだ。糸も理由も、僕が並べるどんな御託も関係ない。このひとを守りたい。どんなものにだって、傷付けたり、傷付けさせたくない。


ずっと、好き。


「うっ、ひぐっ…、っ…」

座り込んで、力の入らない手でもって、ぐしぐしと目元を擦る。次から次へと溢れて止まらない。
勢いは同じだけど、トイレに籠もって泣いていた時のそれとは全然違う成分で出来ているように思える。僕の中に溜まった淀みを一気に押し流すかのように、滴は延々と頬を伝い、濡らし続けた。


――――頭に、ぽん、と。
あったかくて重いものが乗った。

「…―――悪かった」
「っく、っ、…ふっ、…」
「悪かったな、…びびらせた」
「ちがっ、違うっ…っあ、ぼくっ、はっ…」

抱え込まれて、抱き寄せられる。鼻先がぴんと張った膚を擦り、短く切られた髪がちくちくと僕を刺した。鼻腔を擽る匂いに陶然となる。花とか香水のそれじゃない。でも、いい匂いだ。久馬の。

「…きゅうまの、においっ、する…」
「…オマエ、大概頭ぶっ飛んでるだろ。何か普段の発言と大分違うぞ」

彼は呆れたように言って、でも、抱きしめる力を強くしてくれた。目を閉じ、広い背中を、おそらくは埃まみれだろうベストをぎゅうと掴む。彼の心臓に、僕の心臓が当たっている感じがする。すごく気持ちが良い。
本能の命じるままに、動物的に、久馬の首元へ鼻をなすりつけた。くすぐったそうに身を竦められてしまう。それでも、優しい拘束は解けなかった。


「好き、…ずっと、嫌われても、だいすき…」
「――知ってた。だから、」


迎えに来たんだよ。


やたらに都合のいい返事があったので、神経がどうにかなっていることが確定した。幻覚でも夢でも、久馬、らしい、相手の指摘の通り、頭がおかしくなっていても構わない、彼にそう言われるのなら何だって。

声も温もりも手に入れて、貪欲な僕は、今度は久馬の顔が見たい、と思った。閉じていた目を開き、


…状況を把握し、足元に転がっていたスタンガンを拾い上げる。
使い方は知らない。多分、指が触れる出っ張りを押し込んだら、電流が流れる仕組みなんだろう。
久馬の肩越しに、突きつけた。


「――真赭、それ、俺に向けてやってんの」
「…そうだよ、…白柳」

泣きまくっていた割には思ったよりしっかりした声が出た。
僕の答えに、ぼう、と立ち尽くした友人は、困り切った苦笑いをしてみせた。



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