糸とこころとV



(久馬)


「……おう、起きたかよ」

ふらふらと起き上がった姿を見、咄嗟に無視するか、とも思ったが、餓鬼くさいので止めた。かつて、八つ当たり半分、嫉妬半分で『彼』を無視した。その情けない前科の結果が、ある意味、現況をもたらしているのだから。
友人は額に手の甲を当て、眩暈をやり過ごしている様子だった。俯き加減で、表情は知れない。奴は幾度か咳をした。構わず探索を続けていて、…違和感を覚える。ゲホゲホやってんじゃねえ。

嗤ってやがるんだ。

抑えろ、これは挑発だ。そう思った瞬間には時既に遅しである。思考よりも先に、言葉が飛び出ている。

「テメェ、いつまでそうやってヘラヘラ笑ってやがるんだよ」

見慣れた、あの愛想笑いとは少し――いや、大分違う。顔の半面を覆うようにして俺を睨み上げ、喉を鳴らす壱成の顔を眺めている内、確信は深くなった。

「気分はどう、忍?」
「…あ?」
「よかったねえ?ようやく欲しいもんが手に入って」
「……」

きりりと吊り上がる口脣の合間から、喰い締められた歯が覗く。狂気、という単語が脳裏を過ぎ(それは正気の双子だ。目の前の親友だけじゃなく、誰の中にも存在している感情であることを、オレは後で実感することになる)、反射的に身を引きかけた。奴はオレの挙動も考えも、丸ごと嘲るように牙を剥いた。

「俺の手垢が付いちゃってるけど」
「―――!!」

初めの一発は言葉よりもさらに早かった。
アルカイックな笑みを浮かべる顔面へ、拳を叩き込む。がつん。骨と骨がぶつかる感触が全身に響く。肩の力だけで殴る稚拙な攻撃に、壱成はがくりと仰け反った。オレは追い掛けるように襟首を捕まえる。

「壱成、テメェ…」

この期に及んで、どれだけ彼を貶めれば気が済むんだ?手垢なんて一言で済む所業じゃねえだろ!テメェや、テメェの物好きな知人共と、月下は違う。玩具を尻の穴に挿れられて悦ぶ趣味も、公開プレイを楽しむ性癖でもない。


(「そうじゃねえ」)


好みとかの問題じゃねえんだ。なんで、よりによって彼なんだ。
他の奴だったら、誰にだってしたって、構わない。犯罪にならない程度にやればいい。
でも、月下だけは、駄目だ。
彼はずっと、オレを見ていた。この、オレを。オレだって、考え起こせばそうだった。陳腐な言い方じゃなく、現実に、「夢にまで見た」。
茜色の教室で、シャツを剥がし、ベストを捲り上げて、彼の腹を舐めた。下もしごいたし、もっとやばいことだってやった。
赤い幻想は淫靡な笑みを浮かべながら両脚を拓いていた。犯す場所を指で拡げることすらしてみせたのだ。現実にだって、きっと月下は同じように応じるだろう。
彼がオレに惚れていることは自明だから。

鼻と口の端から赤く血を滲ませながら、奴は口脣を弧に歪めている。

「お前には悪いけど、真赭は色々やらせてくれたよ?…すっげー、可愛かった」
「…ダマレ」


がつん。二発目だ。
不思議なことに、殴る度こちらの視界が赤く染まっていく。血を流しているのは相手の方なのに、オレの頭ががんがんと痛くなる。蹴りやら本やらで満身創痍だった筈なのに、それらを遙かに凌駕する激痛だった。


(「…痛え。…あと、気持ち悪ィ」)


頭だけじゃない。胃の腑がぎゅうと絞られたみたいだ。気持ち悪い。駆け上ってくるのは嘔吐感一歩手前のむかつき。掴まってなるものかと口を大きく開き、腹から息を吸って、吐く。この、渦を巻く正体の見えないもんに尻尾を掴まれたら、やばい。ぎりぎり残っていた理性が教えてくれていた。
オレのからだの管という管を甘く塞いでいた切なくもどかしい想いは、とうに失われている。

「頼むから口きかねーでくれるか?アァ?すっげえ胸糞悪ぃんだよ」
「…ッ、ガッ、…は…はは、」

何がおかしいんだ。さっきから螺旋が取れたみたいに笑いやがって。

「面白いさ。オマエの怒りなんてドーブツ並なんだよ。順序?独占欲?一枚皮を剥がせば誰だってそんなもんさ。都合の悪いコト、聞きたくないんでしょ?テメェがダラダラ二の足踏んでる間に、自分のエサだと思ってたもんが、食い散らかされたのが気に喰わないだけだろ?」
「…ッ」
「もういいじゃん。お前のもんだよ。―――月下は間違いなくお前の『モノ』だよ」

そこで、壱成の口調はふいの影がさすように低く、静謐なものになった。オレが、奴の変化に気付くことは無かったが。

「結局マジになれば、忍は何でも手に入る。焦らして、遊んで。…楽しいね」

がつん。

「ふっ…グ…、ふふ、き、聞きたくないことは、そうやって殴って黙らせるってか」
「ああ、そうだよ」

ついでに、耳でも潰すか。言うことちゃんと聞けないんだったら、こんなもんついてても意味ねえよな。口もいらない。余計なことをくっちゃべる口だ。ならば潰すべきは声帯か?
オレは痛みを噛み潰し、奥歯に力を籠めた。歯が軋む音が脳髄までに響くような気が、する。


そう、アレは、オレのものだ。
テメェにちょっとも呉れてやるつもりもない、オレの、モノ。
先に壱成が手を出したのは誤算だったが、焼き直しは可能だろう。同じ事をすればいい。以前躊躇ったことを、実行に移せば良いだけの話である。

普通科のボケナスが来た時に、オレは二の足を踏んだ。恐れたのだ。
自分が分からなくなる。感情に引っ張られる。月下真赭という人間に傾倒しつつある己を認めたくなかった。幻想と現実をひとつにしたいと望む欲、狂っているとしか思えないそれを、自覚して―――蓋をするために、彼と距離を置いた。

だが、すべては杞憂だ。何も考えることなんて、ない。きっと月下は逆らわないだろう、オレのことが好きなんだからな。

悟った瞬間に頭も身体も軽くなった気分だ。あの、錘みたいに鈍重だった左脚すら、嘘のように楽だった。むしろ、どくどくと、心臓のようにそこから新しい血を送り込んできている感じがする。吐き気を通り越して高揚感、なんて初体験だぜ。
オレの思考をなぞるように、壱成は言う。


「……好きに、すりゃいい。だけど、一度ついてしまった瑕瑾はどうしようもない。もう取り返しもつかない。俺が、真赭にしたことはどうあっても事実だ」


どんな風に月下が悦んだのか、どういう風に責め立てたのか。奴は懇切丁寧に説明して下さった。こちらの怒りに油を注ぐ意図があるのは明白だった。
そんなことして、どうなる?…ああ、そうか。俺にも、同じ穴の狢になって欲しいってことかよ。お安いご用、望むところだ。


「…どう、して、…白柳…っ」


あまりに楽しそうに話すので、静聴してやっていたら、背後からか細い声が飛んできた。壱成の襟首をぶら下げたまま、僅かに首を捻って振り返る。しろい体躯の至る所に淫猥なしるしをつけた彼、が、這い蹲っていた。
…何かしようと思っていたっけな。
まあ、いい。こっちが片付いてからだ。それまで、黙ってろ。
命じると黒い瞳を凍り付かせて月下は黙り込んだ。小動物的な「いじめて感」があるんだよな、アレ。ひとを誘うだけだって、どうして分からねえかなあ。

「さあて、…壱成。気はすんだかよ」

放っておけばいつまでたってもベラベラやりそうなので、ストップを掛けることにした。案の定、

「全然」

とのお返事である。言うと思ったぜ。

「あっそう。じゃ、強制的に静かになって貰うわ」

奴を支えていた両手をぱっと離す。必然的に壱成は本の山に背中から落ちることになる。くぐもった苦鳴が上がり、砂埃にまみれた制服姿が長くのびた。
改めて見れば、整った顔は赤褐色に汚れ、鼻から口脣へ伝うところに血溜まりが出来ている。オレが殴り続けた方の頬は腫れ上がり、無惨なもんだった。時折咳き込んでいるのは、もしかしたら鼻血が逆流しているのかもしれんな。あれ、苦しいんだよな。

「テメェが何したかなんてなあ、どうだってイイんだよ」

ぶちのめして下さい、と言わんばかりの体勢である。期待に応えなきゃ男がすたるわ。

おそらくオレは、白柳以上に気色悪くにやついていたのだろう。
腫れてた頬に押し上げられた切れ長の双眸が、一瞬見開き、満足気に細められた。殴られようが蹴られようが、本当に構わないと思っている様子だ。

頭がくらくらし過ぎて気持ちが良いだなんて、知らなかった。ランナーズ・ハイとはまた別種の昂揚が、神経の隅から隅まで、ちからを送ってくれる。皮膚を突き破りそうなほどの怒りに従って、後は、足を振り下ろすだけだ。


「お前マジウザい。…あいつはオレのもんだよ。それがどうかしたかって話だよ」


どうせ、オレが同じことするんだから。…いや、もっと、それ以上に、彼の体躯に焼き付いて離れない、烙印のような遣り方で、侵してやればいい。


無防備な腹を狙い、踵を落とす、



「させないっ!」



――――予想した感触が伝わる前に、がくん、とオレの身体は後背へと仰け反った。首に縄を付けられた犬のように引っ張られる!

「ぐあっ?!」

流石に宙を飛びこそしなかったが、積み重なった本に背中の皮を削られながら、雪崩落ちた。止めとばかりに、コンクリの床で頭を打った。目から火花が出るって、比喩表現じゃなかったんだな。なんか白い星っぽいのがリアルに見えたぞ。まさか身を以て思い知ることになるとは…、


「―――じゃねえ!痛い!なんなんだ!!」


どいつもこいつも、オレに恨みがあるとしか思えねえ展開だ!これが大殺界ってやつか!!
なおも滑り落ちながら、肩を支点に憤然と起き上がる。

「久馬…っ!」

かっかと沸いた頭を冷やすように、名前が呼ばれた。

少し前は、人の顔色を窺っているみたいな声音だと、嫌悪しか感じなかったのに、


…こんなにも惹かれている。


「…駄目っ、駄目だ…っ!うっ…、きゅ、久馬ぁ…」
「……、…あ」

火花が、もう一回散った。架空の金槌で後頭部をがあん、と殴られたみたいだ。


「…オレ、」


何、やってんだ?月下をほったらかして。すべきことが、あった筈だろう?
壱成と同じことをするだって?そんなん、月下が受け入れるわけねえだろ。
仮に相手が頷いたとしても、受け入れさせちゃいけねえんだ。傷の上塗りして、どうすんだよ。


彼は、涙腺の堰を切って、ぼろぼろと泣きじゃくっていた。頑是無い子どものような仕草で否定に首を横へ振り、ほっそりした手で俺の理性の手綱を握りながら。





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