糸とこころとT



(月下)

凝固してしまった血のような、どす黒い赤だった。上半身を屈めた体勢で、肘を折り、拳を振り下ろす彼の足から、ずるずると伸びている黒紅の糸。重なる本を乗り越えて、床へ垂れ、僕の左足首へと結わえられている。こちらに向かうにつれて、不吉な色は段々と薄くなり、見下ろした足元の縄はいつもの赤い色をしている。だから、初めは自分の勘違いかと思った。
慌てて、山の上に立つ久馬を見上げる。目を凝らす。


(「…見間違いなんかじゃ、ない…」)


何処かで見た色だ、と思った。すぐに、記憶の束が依り合わさって、繋がる。

白柳の足首の糸。
あれと似ている。あれはもっと黒かったけれど。


一体どういうことだ?この部屋に来た時――既に変化は起こっていただろうか?久馬の登場に驚いたり喜んだりはしていたものの、彼の『赤い糸』の様子までは、…どうにも、覚えていない。
自分のことでいっぱいいっぱいだった、っていうのも、ある。でも、多分、あんな色はしていなかった。今、久馬の足首に絡みついているのは、どろりと濁ったような、血液の色だ。

ある人間において、そのひとの『糸』が途中で変色するのなんて初めて見た。

(「…なんだろう…」)


あまり、良い予感がしない。
むしろ、ぞくぞくと、身体の内部から泡立っていくような感覚がある。寒気――、鳥肌。心臓が早鐘を打っている。

「良かったねえ、…忍。…ようやく欲しいもんが手に入って。俺の手垢が付いちゃってるけど」
「っせえ!黙れって言ってんだろォ!」

がつん。
幾度目かの鈍い殴打の音に、はっと影を仰ぐ。背中を向けてしまっている久馬の表情は、杳として知れない。彼の身体の輪郭から滲み出ている、怒りの感情だけが、確かだ。
久馬は再び怒っていた。けれど、先ほどまでの憤怒とは違った。
混じり気のない、直線的な、ただひたすらに、相手を攻撃することだけに意識が向かっているような。それが彼の親友で、白柳壱成という人間であることに、全く――いっそ恐ろしいほどに――拘りを抱いていない、…むしろ、憎悪と表しても違いのないような。

げほ、と白柳が咳き込んだ。久馬に吊り上げられた襟首から、滑らかな首が落ちている。さらさらとした髪も、手入れの行き届いているジャケットも、この部屋に居る全員が同じくして、見る影もなく汚れていた。
薄暗がりでひかる双眸は、しかし、力を失ってはいなかった。だらりとぶらさげられたまま、下を見、ゆっくりと視線がスライドしていく。
追い詰められ、嬲られているにも関わらず、奇妙に凪いだ目だった。

僕を視界の端に捉えたとき、彼はそれを優しく歪めて、笑いすらしたのだ。

「――――!」
「…あれ、駄目じゃん真赭。…オモチャ、外しちゃったの…?…すぐ入れ直さないと、…ッ」

がつ。

「頼むから口きかねーでくれるか?アァ?すっげえ胸糞悪ぃんだよ」
「…ッ、ガッ、…は…はは、」
「…何がおかしいんだよ」
「…都合の悪いコト、聞きたくないんでしょ?テメェがダラダラ二の足踏んでる間に、自分のエサだと思ってたもんが、食い散らかされたのが気に喰わないだけだろ?」
「…ッ」
「もういいじゃん。お前のもんだよ。―――月下は間違いなくお前の『モノ』だよ。結局マジになれば、忍は何でも手に入る。焦らして、遊んで。…楽しいねえ?」

がつん。

(「…やめ、ろ…」)

「ふっ…グ…、ふふ、き、聞きたくないことは、そうやって殴って黙らせるってか」
「ああ、そうだよ。…ついでに、耳でも潰すか。な?白柳。ヒトの言うことちゃんと聞けないんだったら、こんなもんついてても意味ねえよな」
「……好きに、すりゃいい」と彼は嗤った。酷く朗らかな口調だった。
「だけど、一度ついてしまった瑕瑾はどうしようもない。もう取り返しもつかない。
俺が、真赭にしたことはどうあっても事実だ」

僕は息を詰める。涙がひたひたと眦の端までやってくる。そう、それは、事実だ。

僕が白柳の差し延べてくれたモラトリアムに乗っかったのも、そこで仮初めの安らぎを得たのも、罰を感じたのも、―――利用したのも。すべて、すべて。


「…っふ、は、ねえ。忍。俺がどうやって遊んだのか、教えてあげようか。真赭がちんこの裏擦って遣ったときにどんな声で啼くのか、とか、ケツの穴の何処らへんで悦ぶのか、とかさあ。今後の参考に聞いて置いた方が良くない?」


久馬は、黙っている。


「あ、フェラもイラマも経験済みだからね。結構具合いいよ。二人前の彼女にもさせたけど、あれよか遙かに抜ける。舌とかすげえやらかいの、真赭」


もう、やめてくれ。
僕がしでかしたことは、…もういいんだ。だけど、白柳の口から改めて久馬に伝えないでくれ。終わったら、問われたら、何だって自分で答える。彼が希むなら。それにもしかしたら、もう、大抵のことは悟られているかもしれないんだ。

今ここで、白柳が僕らの間であった行為に言及することは、親友である二人の関係をぐちゃぐちゃにする結果しかもたらさないじゃないか。ただの挑発だ。彼に限って、そんな無益なこと、する必要ないのに。

「どう、して…、はこやなぎ…!」

必死に紡いだ声は、自分のものとは思えないほどに嗄れていた。反射的に、――意味もないのに、僕は喉を押さえた。唾を作って飲み下す。
はこやなぎ、そう、もう一度名前を呼ぼうとしたら、こちらを見つめていた白柳が薄く微笑んだ。


何故?


久馬がちらりと僕を見る。その時間は、僅かだ。

「テメェは黙ってろ、サカシタ」

氷雪を思わせる、先ほどまでの温かさが嘘のようなそれは、すぐに白柳へと戻った。辺りに転がっている、椅子や本の類と同じに、一瞥されたのだ。理解して、ぞっとなる。そして、気付いた。

どんなに厭うていたときですら、久馬が僕をそうは扱わなかったことを。


「…気は、済んだか」


低い、憎しみを押し殺した声が言う。白柳が首を振るのが見える。

「全然」
「あっそう。じゃ、

――――強制的に静かになって貰うわ」


久馬が背をすっと伸ばして、微塵の執着もなく両手を離した。固く、不安定な積層の上に白柳の体躯が落ちる。うっ、と息詰まった呻きが聞こえる。ピエタのように投げ出された腕の先はしろかった。本の隙間に埋まる彼の顔を必死に探した。
薄い口脣は微かに開いて、でも、未だに嘲りの形に曲がっていて、


「マジお前本当ウザい。…あいつはオレのもんだよ。それがどうかしたかって話だよ」


黒紅の糸を結わえた久馬の足が、ゆっくりと上がる。


デジャヴ。


教室で、新蒔が倒れ込んでいて、彼の長い脚が無防備な腹を狙っている。ひたすらに静かな声音、つまらなさそうな表情、落ち着いた動作。あまりにも場違いなそれに慄然となったことを覚えている。
あのとき、僕が後輩に覆い被さらなかったら、久馬は躊躇なく踵を下ろしていた。やめろ、駄目だ、何を言っても聞かなかった。
ならば止めるのなら同じことをすればいい。二人の間に割ってはいるのだ。

(「…でもっ、この距離じゃ間に合わない!」)

夜の色を成した白柳の糸。縄は切れて、何処にも繋がっていなかった。偽物の恋人の僕では、何処まで行っても彼の先にはなれなかったのだ。黒い桎梏を纏わり付かせて、「まともじゃないらしいんだ」と、二つの絵画を見上げながら事も無げに告白する姿と―――、

久馬の左脚のそれが、だぶる。


僕にしか見えない、『赤い糸』。たったひとつだけの出来ること。


全くの、無意識だったと思う。

如何にも破壊力のありそうな蹴りが、紙の瓦礫の上に乗る白柳目掛けて振り下ろされる。僕は咄嗟に自分の足首に絡まる糸を、『掴んだ』。
可視にして質量を持たず、ただのまぼろしでしかなかった筈のそれは、しっかりと僕の両手に馴染んだ。
感触はまさに、体育祭の時に使う大縄飛びのそれだ。ささくれだった繊維がちくちくと膚を刺す。握り込んだ縄は太く、確かだ。


「…さ、せない…ッ!」


後はもう、背中から倒れ込むのも構わずに、引っ張るだけ。



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