彼我X



(月下)


そのとき、僕が目にしたのは体育の―――柔道の、模範演舞で見たのと同じ光景だった。

倒れた久馬へと屈み込んだ白柳の、上半身がぐっと沈んだ。それから、つっかえ棒みたいに、久馬の足が相手の腰付近に宛がわれた。ほんの、僅かな間の動作だった。
あっと思った時には、細く、すらりとした白柳の体躯が浮かんで、久馬の頭越しに投げ飛ばされていった。切れ長の目を瞠り、呆然と口を開いた彼の表情が、残像になって、消えた。

「…!」

がしゃあん、と凄まじい音がして。衝撃に負けた本棚から、ばさばさと色褪せた表紙の中身が降ってくる。暗い部屋の中でも、埃の白さだけははっきりと分かった。
凍り付く僕の眼前で、本やら、書類やらが彼らの上に積もっていく。床は振動し、蛍光灯の笠がゆらゆらと揺れた。ちょっとした地震のようだ。
棚の上半分くらいが空になるまで、それは続いて、まさか本棚まで倒れてきちゃうんじゃ、と危惧し始めた頃にようやく止まった。二人が居たところは塵が舞い、積み上がった本の山がシルエットになっていた。

もう、全身を使って息をすることだけで精一杯だったので、驚いても、ひっ、といった、無様な声しか出ない。重いからだを両腕で支えながら、灰色の埃が立ち上る方向を注視した。

「……」

(「…久馬…、白柳…?」)

間違いなく二人とも、本の攻撃を受けたのだと思うのだけれど、悲鳴すら聞こえなかった。まさか、頭に直撃して気絶しちゃったとか、内臓に喰らっちゃったとか、そういうことになっていたらどうしよう!

「…っく、うっ…」

両腕を拘束していた縄は、解かれている。首から胴、開脚する形で固定されているものは相変わらずだが、正座の要領で膝行(いざ)ることは…出来そうだ。暑い日の犬みたいに、舌を出す勢いではっはっと呼吸をしていた、それを深く息を吸うことで落ち着かせていく。
一回、二回。大丈夫、僕はまだ動ける。身体の節々は軋むし、頭も相当ぼんやりしている。きっと酒を飲んだらこんな感じなんだと思う。酩酊感に苛まれて頭を振ると、余計にぐらぐらする。でも、まだ、僕は動けるんだ。動かなくちゃいけないんだ。

再確認が出来たら、することはひとつだ。

「…ふっ、…う…」

震える手を、股座の間へと潜り込ませていく。ぼろぼろのシャツの中で、僕の後孔を抉っていた玩具は相変わらず、緩やかに蠕動していた。僅かに出ている、張り型の根元を掴む。指が滑る。色々な液体に塗れているだろうことを思い浮かべてしまって、くじけそうになった。口脣を噛んで、堪える。それから、硬く目を閉じて、息んだ。

「…ぐ、っ…、ふ、はっ、……うっ…!」

あまりにも長く挿れられていた所為で肉が異物の形を記憶して固まってしまったかのようだ。喰い締めているみたいに、しっかりとはまり込んでいる。引っ張り出そうとしている間にも、男性器を模した先端が、ぐにぐにと内壁を抉っていく。朦朧としていた時は鈍い感覚でしかなかったそれが、意識した途端、快感と、苦痛をもたらす。俯き、歯を食いしばりながら、背を折り曲げて、必死に探り続けた。

かちん、と爪に溝の部分が触れた。

「――――ッ、」

ぐ、と腹に力を入れると同時に、指で引っかけた玩具を思い切り、外へと引き抜く。

「アッ、ぁあっ…!」

人工の雄に植え付けられた突起が、腸壁をざざざざ、と掻いていくのが分かる。思わずのけぞって、叫んでしまった。気持ちいいだなんて、認めたくはないが、確実に僕の身体は快感を拾っている。何をしても、己の浅ましさを思い知らされる気分だ。
決して白柳の所為じゃない。その卑猥さは、僕の中に深く眠っていただけだ。彼はちょっときっかけを与えただけ。嬉々として揺り起こされたのは自分の方。
にゅぷ、と粘着した音と共に、くびれの部分までディルドが出てきたのが分かる。底を掴み、床へとたたきつけた――つもりになった。実際、僕の腕にそんな力はなくて、コンクリートの打ちっ放しの床に落ちただけだった。
じゅぽん、と厭らしい排泄音をたてながら、玩具が転がる。

「はぁ…、はぁ、…っく、はぁ、はぁ、」

異物を入れられていた穴が、喪失感にひくついている。口脣の端が震えた。アナルから、涎みたいに水っぽいもの――多分、ローションだ――が零れている。しかも僕の雄は、未だにゆらゆらと勃ち上がっているのだ。きもちよくなるよ、と白柳は嗤っていた。確かにその通りになっている。
…こんなに酷い姿を見せてしまったのだ、より酷いことなんてそうはないかもしれないな。

自嘲しながら、考えを行動に移した。両腕を突き出し、腰から下は座り込んだ体勢で、前進する。

「…ふっ、」

掌をぺた、と床につけて。左から先に、次いで、右の手を前へと。剥き出しの膝が冷たい混凝土の床に擦れて痛い。痛いけれど、正気を保つには都合が良いくらいだ。
幼い子どものように、ずりずりと膝で進んでいく。後から考えれば、そのときの僕に出来ることなんてほとんど皆無だったのだ。膂力もなく、思考もぼやけていて見事なまでの役立たず。それでも、久馬と白柳の所に行かなくちゃ、という思いだけで僕の頭は埋め尽くされていた。辿り着いて何をするのかというところは奇麗に欠落していたのだけれども。

涙や汗で歪んだ視界はとても心許ないものだった。瞬きを繰り返しながら目を凝らすと、積み重なった本の下からは、どちらかの脚が突き出しているのが見えた。スラックスの裾は捲られてい、靴下の色は黒っぽい。

(「…久馬…?」)

確か彼はスリッパを履いていた。白柳の靴が脱げただけかもしれないが、投げ飛ばされた友人の居る位置は、きっともっと奥だ。
久馬かもしれない、と思ったら、途端に気が急いた。どこからか這入り込んだ小石や砂で、柔らかい掌の皮や膝頭が切れる。でも、どうだっていいんだ、そんなことは。ちゃんと彼の顔が見たい。名前を呼んで欲しい。これが最後の機会になるのだから―――気持ちを、伝えたい。

「…っ?」

逸る想いのまま、崩れた姿勢で進んでいた僕の手に、何か固いものが触れた。丁度、それを掴む恰好で手を下ろしたらしく、塊は掌の中にすっぽりと入っている。

(「…なんだ…?」)

確かめるべく手元を見下ろしたのと、目を逸らした本の山からうめき声が上がったのは、ほとんど同じタイミングだった。

「…痛ッてえ!…っんだってんだ、コラぁ!」
「…・!!」

ばさ、と、四方八方に本や紙が吹っ飛んでいく。
いつも奇麗にセットされている短髪は見る影もなくぼさぼさ、ニットのベストは埃まみれ、何より、その秀麗な顔には泥とピンクの粘液がべったりと貼り付いている。それでも格好良いなんて、反則だと思う。

うずたかく積もった本から身体を起こし、目の辺りを腕でぐいぐいと拭きながら怒り狂っているのは、…久馬 忍。


あまりにもいつも通りの姿に、僕はつい涙ぐんでしまった。何が哀しいわけでもない。…多分、嬉し泣きなのかもしれない。

「地震があったら全員死んじまうだろーが!何か対策立てとけ生徒会ッ!つうか見目ッ!!これで貸しはチャラだかんな!」

頭も内臓も無事らしい彼は、なおも罵倒を繰り返しつつ立ち上がった。羽を開き、伸びきってしまった鳥のような本を自分の身体から払い落とす。足回りも雑に確保し(蹴って場所を作っていたのはこの際不可抗力だと思う)、すっくと姿勢を正した。少し不機嫌そうな――挑戦的な表情は久馬に一番似合っている。這い蹲った状態で見上げている僕に、辺りを睥睨していた彼の視線がひたり、と合った。

「……」

段々とそれが大きく見開かれていって、…ひとつの到達点に達したとき、緊張の色がふっと脱けた。安堵と―――、何だろう。分からない、でもすごく、優しい。
こんな風に彼に見つめられたのは、いや、僕と彼の視線が合ったのは、あまりにも稀有なことだったから。僕はいつだって目を逸らしていた。数少なく、久馬がこちらを見てくれていることがあったとしても。

「―――…お前、…」

彼は言ったなり、口を噤んだ。穏やかな時間が切れるのはいつだって、すぐだ。

自分の今のありさまを悟って、僕は出来うる限りに身を縮込めた。未だに何かを挟んでいるような股の間を締め、両肩を狭める。手に力を籠めると、くだんの固い感触がぐっと掌を押し返してくる。全身が強張ると、熱の在処が、よりはっきりする。じくじくと痛む下肢を堪えて、深く俯いた。これ以上、彼に見せるのは、…耐えられない。

「…ちょ、…アレ、オレジャケット何処置いてきたんだ…。…クソッ、」

久馬はぶつぶつと呟きながら、本をさらに落としているようだった。

「…おい、月下。…あ、しんどかったらいい。返事しなくて」
「……?」
「とにかく、そこに居ろ。いーな」

例の―――絶対者の声音でそう言い放つと、彼はがさがさと物音を激しく立て始めた。そうっと見上げたら、後ろ姿だった。情けないことだけれど、少しほっとする。僕がいつも見ていたのは彼の背中だったり、理想的なスタイルで駆け抜けていく横顔だったりだ。




紙が擦れる音に紛れて、声が漏れている。かつて、と今がごっちゃになってふやけていた頭は、初め、それが誰のものであるかを気付かせなかった。

「…テメェ、いつまでそうやってヘラヘラ笑ってやがるんだよ?!」
「――、――――?」
「…!!…壱成ェ!」

僕がはたと現実に返った時には、秘やかな声は言い合いになり、罵声と、嘲弄に変わっていたのだ。
弾かれたように見た、久馬の背中は丸まり、振り上げられた腕の先は拳を作っていた。もう片方の手が白い襟首を引き上げている。

彼の親友と同じく、埃や塵に塗れながらも薄く微笑んでいる白柳。


(「…えっ、」)


反射的に立ち上がろうとして、僕は見事に失敗した。事もあろうに、拘束されている事実を失念していたのだ。

がつ、と聞くに堪えない音がする。

何が起きているのかは想像に容易い。久馬が、白柳を殴っているのだ。およそ、久馬らしくない行動だと思う。既に勝負は付いているのに、さらに相手を嬲るような真似をするだなんて。

(「…駄目、だ、…久馬…」)

骨にヒビでも入ってしまいそうな、重い殴打の響き。以前、新蒔を殴った時とは違う、もっと、酷い。暗闇の中で、拳を振るい続ける影を、おののきながら見上げる。
僕が恐ろしいのは、凶行それだけではない。


裾からあらわれた、彼の足首を縛る縄は―――赤黒い色に変じていた。





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