彼我W



(久馬)


回転する軌跡を描いて、硬い背表紙の本が飛ぶ。狙い過たず、奴の顔めがけてだ。
反射的にだろう、壱成は腕を跳ね上げて本をたたき落とした。糸目が刀の切っ先で裂いたみたいにかっと開き、こちらを睨み付ける。おーおー、いい目つきじゃねえの。いつものヘラヘラした顔よかなんぼかマシだぜ。
そいつはデコイだ。月下から注意を逸らさせ、引き縄を手放させる為の、だ。

勿論、オレの攻撃も当たれば大々吉だ。ずるったいスリッパにもめげず、助走は少し、後は強く踏み切って、脚を蹴り上げる。痛い方の左脚だったが、そのときは全く気にも留めなかった。痛みなんて、どっかに吹っ飛んでいた。跳躍から――――薙ぎ払う。

下で頽れている月下の頭は軽くクリア、よろめきながら、体勢を立て直そうとしている壱成の横っ面に爪先を叩き込む!

「…くっ」
「おー、よく防いだじゃねえか、よ!」

偶然か、きちんと図ってか、奴は肘でオレの蹴りをブロックした。がつん、と骨同士がぶつかる、鈍い感触が奔る。壱成の鼻梁に細かな皺が寄った。ブロックしたものの、それなりに痛かった筈だ。ざまあみやがれ。
右足から接地して、今度は膝頭を脇腹目掛けてぶち込む。腰の捻りだけだから、さっきよりか勢いはねえが、体重が掛かってるから、当たったら動けなくなること請け合いだ。友人に呉れるような蹴りじゃないのは分かってる。が、目下オレはトサカにきてるんだ。人生史上、最高に。

ひゅう、と空気を切り裂く鋭い音。音だけでも、喰らう衝撃がキツイもんかどうかって分かるから、不思議なもんである。
付き合いの長さか、壱成は二撃目も足技だと悟っていたらしく、もう一度腕を犠牲に防いだ後で、オレの足を脇に抱え込んだ。

「そう、何回も…っ!」
「うお」

振った足ごと身動きを封じられたところで、心臓の辺りが氷漬けにでもなったみたいな、相当に厭な予感がした。まさに、ひやり。思わず至近距離にある、壱成の目を見る。目が合う。それが、弓張月の形に歪む。

(「…マズ、」)

何がまずい、という具体的な答えはない。答えが出るときは、大抵、既に遅いのだ。

友人は、繰り出された足を抑えたままで、上半身を捩った。背後にあった、その「何か」を取るために。壱成が掴んだものの正体を、オレは、身を以て知ることになった。
ぶちゅ、と妙に間の抜けた音がして、―――――――視界がピンク一色になる!

「ぐっ、あっ?!」

次の瞬間、湿った感触が顔面に拡がった。皮膚を撫で回すようにして、垂れ下がっていく滴は、重い。眼球がびりびりと痛み、堪らず目を瞑った。そうしても効果は無いか、…むしろ逆効果かもしれない。しかもこの粘液、やたらに甘ったるい臭いがする。うえ、吐きそう。

「…き、きゅ、うまっ…!」

月下は、自分がやられでもしたみたいな悲鳴を上げた。それだけ叫べりゃ、まだ大丈夫だ。出来れば死んだフリ一歩手前で大人しくして、壱成の注意を引かないようにしといてくれ。

足を止められて、フラミンゴ宜しく片脚だけで立つ姿勢を取らざるを得なくなる。ふおん、と耳元で風を切る音がする。もうこりゃ厭な予感どころじゃねえ。平手打ちなんて可愛いもんと違う、間違いなくグーパンだグーパン。こいつも大概えげつねえ真似しやがるよ。いや、前から分かっちゃいたけど。良くも悪くも、お互いマジってことか。

まともに回避出来ないのであれば、取る手段はひとつだ。

「うらぁッ!」
「…ッ!」

体勢を崩しながらも、自由な腕でもって壱成の首を固定する。薄い口脣の端が引き攣った。
そう、テメェの予想の通りだ。このシュチュエーションなら頭突きって相場が決まってんだよ!

「――――っく!」
「クソ、」

擬音で言うなら、まさにどんがらがっしゃん、だ。

男子高校生二人分の重量を受けて、冷たい床がしなった。埃がもうもうと舞い上がり、自転車が事故ったみたいな、派手な金属音がする。多分、あのぼろい事務椅子だろう。さらに、机上にあったがらくたが、巻き添えを食ってがちゃがちゃと落下していく。床に転がる前にちらりと見えたのは、AVもかくやの、色とりどりの妖しい玩具だ。これを全部月下で試そうとしていたのかと思うと、腹腔に、どす黒い怒りと…嫉みと憎悪がミックスになったもんが溜まっていく。まるで、コールタールみたいにどろどろだ。

「…痛ッ、う…」

この手応えだと頭突きは失敗だ。なんか、肩あたりにごん、とやっちまった気がする。ぎりで避けられちまった。糞。

転がり落ちた時に、机の角だか床だかで、肘の先をしたたかに打った。痛い。金槌で殴られたみてえだ。
四つん這いの体勢で、痺れちまった肘の部位を庇いながら必死に上体を起こす。壱成も背中を打ったらしく、低く呻きながら背を丸めていた。尻でじりじりと後退り、オレから距離を作る。奴も、右腕を浮かせ、床へついた左手に重心を任せていた。パンチと頭突きが相殺で、両者、どっこいの損傷具合だ。

(「…地味な削り合いは御免だぜ」)

こいつとここまでマジでやりあう喧嘩って、確か初めてだ。喧嘩が生き甲斐!なんて時代錯誤じゃないし、一応普通の男子コーコーセーだからな。オレら。壱成が喧嘩に強いかどうかなんて聞いたこともねえけど、負けたとかボコボコにされたって話はとんと無い。卑怯技と変態行動が多いのは知ってるが。

だが、一分一秒でも早く月下を楽にしてやりたいんだ。いつまでも這い蹲っているわけにはいかねー。力押しで勝負なら、こちらの方が優位だ。さっきの謎粘液といい(ブツの正体は何となく察しはついてるけど)、これ以上妙なもん引っ張り出されちゃ困る。


目でしっかりとオレを補足したまま、壱成はなおも後退していた。頬のあたりにかっかと熱をもっているオレに対して、奴の顔は能面みたいに白く、無表情だ。目だけがやけにぎらぎらと底光りしている。
睨めっこしてても仕方がないので、放り出されていた奴の足を、力任せに掴んだ。革靴の硬い感触。構わず、力を込め続ける。


「逃げんじゃねえよ!」
「逃げる、か、よ!」


バチバチバチバチ、とテレビドラマで聞いたような音がする。

「―――っぐあッ?!」

初めは何が起きたのか分からなかった。濡れ手でドライヤーのプラグをコンセント穴に突っ込んだ時に似た感覚が、全身に奔る。腕が痙攣を起こしたかの如くに、がくがくと震えた。

オレ自身の統制から離れ、身体が勝手に振動している。

次に放電音だ、と思った。思ったのは我ながら実に結構だが、まともに働いたのは思考だけだ。壱成の足へ触れた左腕は支えを失い、オレは着陸に失敗したみたいに、上半身から崩れ落ちた―――奴の、足元に。


くだんの、白刃の笑みを閃かせながら、壱成は右の掌に黒いリモコンのようなものを持っていた。リモコンっつうか、電動シェーバーっていうか…、…それ、見間違いじゃなきゃ、

「…っ、テメ、…スタン、ガ、ン・・っとかって、」
「やっぱり気絶はしないのか。電流、大したことないもんなあ」

しゃあしゃあと言う、友人の右腕は普通に可動している。
デコイ。フェイク。こちらを引っかける為の罠だ。利き手が使えないのなら、たたみ込んじまえば片が付くって、何処かで焦ってた。

付け込まれたんだ。

「忍らしくないじゃん。ちゃんと相手見なきゃ」と奴は嘲笑った。気怠そうに体躯を持ち上げ、肩を押さえたまま、うずくまっているオレを、おそらくは睥睨していた。頭の上に、真っ黒い影が落ちる。睨み返してやろうと思うのだが、肩、鎖骨、首の継ぎ目が外れちまったんじゃないかってくらい、麻痺している。

…月下、頼むから騒ぐなよ。彼のことだから驚愕のあまり声すら失ってそうだけれど。

「自分の心配したら?」
「っが、ッ」

視界が、床から天井に変わる。頭が痛い。両肩が地べたに押さえつけられる。動きを縫い止めているのは、奴の足だ。有り体に言えば踏みつけにされている。
キリキリ口の端を吊り上げている壱成は、嗜虐者根性丸出しの面構えだ。人様を足蹴にしやがって、お前これ友達にすることかよ。

「お互い様でしょ」

確かにな。せめてもの意趣返しにと、歯をひん剥いて見せたが、望んだ効果は得られなかった。

「何でもかんでも自分の思う通りになる、と思ったら大間違いだよ」
「…んなこと、思っちゃねえ、よ…」
「だったら無意識ってことか。尚のこと悪いんじゃね、それ」

がつ、と脇腹を蹴られる。

「うあ」

動けないからって好き放題しやがって。

「…こんなこと、したって。何、にも、なりゃしねーぜ」
「時間が稼げればいい。一日あれば、…分かるだろ?真赭に『二度と久馬に逢いたくない』って言わせることだって出来る。あんなの、序の口だぜ」
「壱成…ッ、」
「本当は俺だってしたくねーし」と奴は言う。「それに、俺にとっちゃ、忍がダチだってことには変わりねえもん」

でも、邪魔はさせないから、とさらに蹴り。言ってることとやってることが真逆だろ。

痺れは―――、どうだ。両脚はまだ生きてる。腹筋使って起き上がろうにも腹が痛すぎだし。しかもオレが膝を立てようとしたタイミングに併せて、皿の部分目掛けて足の平が降ってきた。この鬼畜め。陸上部の足を何と心得る。走れなくなったらどうしてくれるんだ。

「――――ィ!」

すっげー、痛い。でも、無様に叫ぶのは絶対に厭だ。
奥歯を噛みしめながら痛みと苦鳴をやり過ごす。ヒイヒイ騒ごうものなら、月下に恐怖が伝播することは確実だ。
お前が心配することなんて、何もないんだ。


何にも。


じっと見下ろしていた瓜実顔が口を開いた。

「でも、やっぱ腹は立ったから殴らせて」
「……、…っう、」

ご丁寧に左肩の関節に力一杯踵落としを喰らわした後で、奴は馬乗りになってきた。手が伸びてきて、よれたシャツの襟を掴まれる。ようやっとの思いで、胴体を庇うように、右脚を腹の前で折ると、鼻で嗤われた。またしても、蹴り崩される。首に、長い指が掛かった。
…こいつ、喧嘩に勝ちそうなのに全然楽しそうじゃねえのな。好きな奴が手に入るんなら、もっと幸せそうなツラすりゃいいのに、辛気くせえ。

「いっ、せえ」
「なに、遺言?」
「…ぁあ、…近、いっ、かな…」
「何だよ」


膝頭を相手の腹につける。近付いた相手の襟首を、自分がされているように掴む。指がかじかんでいるみてえに震えているが、あと一動作する間に保ってくれればいい。取りあえず、今だけでもいいから動いてくれ!

「っ?!」

また頭突きかと思ったらしい壱成は、咄嗟に頭を退いた。



「オレが本気になったら負けるってな、――――そう思ってる時点でお前は負けてんだよッ!」



奴の姿勢が僅かでも危うくなる、その瞬間を、

――――待っていた。




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