彼我U



(月下)

かつて、僕と埜村の前に現れたように、彼はまたしても、そこに立っていた。

身体の内外に充ちている、薬の見せる幻覚かと思った。
あまりにも都合が良すぎるし、思考は大概蕩けきっていて、ただひたすらに、全てが終わるのを待ち詫びていたから。
抗う体力も気力もとうに喪失している、自分が、自分の意思で動けるとしたらその後のことだと思っていた。なのに、久馬は来た。まるで、おとぎ話に出てくる騎士みたいに。


あんなに熱を倦んでいた左足首が、楽になっていることに、僕は気付いていた。何処も彼処も痛かったし、多分、感覚はいろんな意味でおかしくなっていたと思う。それでも、万力で締め上げられているような痛みだけは、飛び抜けて心身を苛んでいた。
息を切らし、鋭い目つきをさらに険しいものにしながら久馬が近付いて、比例して「赤い糸」の疼きが静まっていく。強制力。幾度となく脳裏に過ぎった言葉が甦る。
けれど、馴染んだ罪悪感も恐怖も、不思議と薄らいでいた。仄暗い喜悦もない。

確信した。
間違いなく彼も、「引っ張られている」。

つまるところ、糸のちからは僕の手足の延長みたいなものなのだ。そして、起きた事象をどうするのかは、自分次第だ。
その事実を今更のように受け入れていた。


月下、と呼ぶ声がする。憧れて、焦がれてやまなかったひとの声だった。これは現実だ。本当に、久馬が居るのだ。
ぼやけた像を何とかきちんと結ぶべく、僕は瞬きを繰り返した。

「…っく、…ぁ、きゅ、う…ま?」
「おい、大丈夫かよ、…こっち見ろ!」

疲労と―――快楽とで、掠れた返事をすると、久馬は焦燥も露わに大股で歩み寄ってきた。と同時に、すぐ隣に立つ白柳の、雰囲気がぞわりと肌寒いものに変じた。先ほどまであった、こびり付くような甘さは欠片もない。…攻撃的で、排他的な。

彼が、親友たる久馬に対してそのような空気を纏うことはあってはならない筈だった。
見上げた相手の眼差しは、やはり冷たい。この昏い牢獄において、いつも通りの飄々とした態度であることの不自然さ、その意味を朧気ながら悟った。白柳は退くつもりがないのだ。

そして愚かにも、僕自身にようやく意識が向いた。

―――己の、このざまは。

「…だ、…駄目、だ…」

級友に責められ、麻痺しかけていた羞恥がようやく僕を鞭打つ。幻滅される要素すらも既に使い果たしてしまったかもしれないが、こんな醜悪な姿を彼に見せたくない!
痩せぎすの身体は縄で縛された痕がじわじわと滲みだしている。顔にも腹にも、自分と他人の欲のしるしが散っている。…僕が応じた証だ。白柳によって慣らされた窄まりは、厭らしい色の粘液を吸い込み、今また、玩具を咥えて込んでいた。しかもそこから快感を得始めているのだ。

こんな、――――醜い。


「ぼくを、…僕を…み…、る、な」
「馬ッ鹿、何言って、」

ゆるゆると首を振った、…つもりだった。実際そう出来ていたかは分からない。

「すぐ、…すぐ…、っあ、すぐっ、だからっ…!」

これが終わったら、すぐに君のところに行く。だから、早く、…立ち去ってくれ!
久馬の姿を見ることが出来て、僕は、あと少しは自分自身を保てそうに思う。それだけで充分だ。


浅い呼吸を繰り返しながら、出て行ってくれと頼もうとしたそのとき。


「…っ、はあっ…!」


決意を嘲笑うかのように、張り型がずんっ、と胎内を犯す。ゆるく勃ち上がった僕の、ちょうど裏側あたりを硬い切っ先がえぐる。

いやだ、駄目だ!こんな、彼が見ている目の前で!

「――ア、」
「!」


暗闇を背に立ち尽くしている久馬の、目がまあるく見開かれる。どんな時だってきらきらと輝いているそれが、一瞬にして凍りついた。

(「…ああ、…終わりだ…」)

尾を引くことは避けたけれど、甲高い女のような嬌声が僕の声帯を震わせた。
久馬が愕然としたのは、その声、そして幾度目とも知れない残酷な絶頂に、僕の牡があさましく吐精をしたからに相違ない。
腹に温い液体が伝う。慕うひとの蔑みが恐ろしくて、目蓋を閉ざし、肩で息をついた。じゃないと、イキ続けている間も呵責なくアナルに突き入れてくる玩具に、また無様な啼き声を上げそうだった。
彼が見ている前で喘ぐだなんて、まるで、犯されていることを悦ぶ獣だ。
終わりの後すらも失ってしまったら、ほんとうに、僕は何処へ行けばいいんだ?

「…壱成、…放せ。そいつを」と、静謐な、低い声が言った。「今すぐ月下放せって言ってんだよ。聞こえねーのかよ」

(「…え…?」)


手出しをするな、と白柳が言い、さらに彼がだらしなく汚濁を零す僕の陰茎を踏みつけにしても、久馬の怒気は揺らがない。まるで僕が当初からの目的であったように、解放を命じ――何よりも、とてつもなく怒っているのだ。

…混乱した。

(「…僕を、…助けに来た…?まさか…そんな、」)

糸の強制力が呼び起こす「偶然」でも、白柳を探しに来たのでもなく。
もしかして、僕を捜しに来てくれたのだろうか?

確かに約束はした。話そうとも言った。でも、親友と諍いを起こしてまで、彼が必死になる必要なんてどこにもない筈なのに。


「だって、俺は。本当に好きな奴のこと、…こういう風にしか扱えない」

白柳が僕の身体をまさぐり、見せつけるように開脚した股座を、その下で震えるバイブを久馬に晒す。ぶぶぶ、と例の音をたてながら、玩具は変わらず僕の菊座をぐちゃぐちゃに引っかき回している。

吐息はすべて淫声にすり替わりそうで、呼吸が怪しくなるくらいに息を詰め、鎖骨へ顎を押し付けた。消えてしまいたい、とはまさにこのことだ。太股を寄せようとしても、縄で括られているそれらは、自分の身体であるにも関わらずびくとも動いてくれない。

気配がどんどん近付いてくる。僕は否やに首を横に振った。
窘める仕草で喉を撫でるのは白柳の手だ。
そうと分かるくらいに馴染んでしまった、この、冷たい膚に。


久馬のプレッシャーは矛先が向かっていない僕にも空恐ろしいほどだった。新蒔と対時していたとき以上に、鋭く、重い。
なのに、しろい手の主は淡々と言い返している。

「余計なことなんて爪の垢ほども考えないようにしてやらないと、…考えている間も、俺がその思考をすべて食ってやんねーと、駄目、なんだよ」

…そうだ。白柳はいつだって、そんな遣り方で僕を楽にしてくれたのだ。全部を彼に預けて、僕自身を失くすことで苦痛を取り払ってくれた。

(「…でも、それじゃ…駄目なんだ…」)

息を殺しながら、固く目を閉じる僕を余所に、久馬は、ちらとも動じた様子もなく、言った。

「だとしても、…そいつは、テメェが食い散らかしていい相手じゃない」
「忍が決めることじゃねえ」
「いーや。いいんだよ、オレが決めて」と、彼は言った。

それから、…とんでもないことを口にしたのだ。

「そいつはオレのことが好きだ」
「…、…っ」


え。


びっくりして、目を開けると僕に向かってごつい指が突き出されている!

「…で、オレもそいつが好きだ。つまり両思い。相思相愛」

「…っは、…ぅ、っ…?」
「だから、壱成。テメェの出番はこれにて終了だ」


えっ、えっ、なんだ、今、久馬は何を言ったんだ?!
僕の耳が狂ったのじゃなければ、彼は…ぼ、僕のことが、


好きだ、と。


僕が彼に想いを寄せていることの露見以上に、衝撃的な内容だ。世界にそれだけしか言葉がなくなったみたいに、頭の中で反芻をする。心臓が剥き出しになったようにばくばく鳴って、これより上はないほど、体温が上がった感じ。

久馬が僕のことを、好き?そんな、馬鹿な。

よく日に焼けた精悍な顔には、あの、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。一度こちらへ向いた視線にはしてやったり、と言ったニュアンスが含まれていて。


だから、分かったんだ。


…僕は、俯いたままぎこちなく微笑んだ。もしくは、そういうつもりになった。
久馬、どうしてか助けに来てくれたみたいだけど、…その嘘は一番、辛いよ。詭弁にすらなりゃしない。とてつもなく残酷で――真を射た虚言だ。

僕を救うために、白柳を黙らせる為に(実際効果は覿面で、友人はものの見事に沈黙していた)言ったのだろうが、僕にしてみればこの姿を見られたことと同じくらいに、辛い。自分の口で明かして軽蔑された方が、まだマシだ――!

情けなくも、涙腺が緩んできた。生理的な反応とは明らかに違う、涙がゆっくりと溢れてくる。歪んだ視界に、埃や精で薄汚れた革靴が映り込んだ。スラックスの裾に、断ち切られた黒い縄を絡みつかせている。


はこやなぎ、と思った刹那、僕の呼吸は、止まった。



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