羅針と鍵T



(久馬)


時には安楽、時には痛みをもたらした左脚の、奇妙な「感覚」。これを信じるべきかどうかは、審議の必要もない話だ。俺が確信を得たことで、間違っていたことはそうは無い。…月下に嫌われていると思っていたのは除く。

(「…懐かしいな」)

一ヶ月半。
剣菱に、声を掛けられて月下を仲間に入れろ、と命じられてから、実に一ヶ月半が経過した。初めは死んでも入れてやるもんか、と思っていた。もっと以前、同じクラスという枠へぶち込まれたばかりの時は、逸らされる視線が憎らしくて仕方がなかった。それが今じゃあ、学内を駆けずり回って探しているのだから、我が事ながら大した変化だぜ。

いや、…変化じゃ、ないのか。


――――もっとよく考えてみなよ。


ハコに何度となく言われた言葉の意味も、もう、分かる。交友関係、表情の変化、些細な癖、昼休みは何処で過ごしているのか。月下の、大概のことは把握している。仲の良い相手ならともかく、口もきかない同級生にそれは、ない。スで始まってカーで終わる犯罪行為を実行中ならともかくとしてだ。
あー、でも、考えようによっては若干ソレっぽかったかな、俺。あの優等生の皮を装備した半サディスト変態社会不適合者の親友殿が呆れるくらいだもんな。

「…っは、は、は、…ぐっ、…―――はっ、はぁっ、」

教室を出てから走り通しで、流石に足がぐらついた。息も荒い。それでも、リノリウムの廊下をスリッパでばたばた叩きながら、引っ張られるような感覚に従って、共有棟に戻る。
すれ違う学ランにセーラー、見慣れたブレザー姿はちょんの間不思議そうに振り返っていたが、後は礼儀正しく素知らぬ顔だ。格好良すぎる俺様をもってしても、ちゃちなビニールスリッパでゼーゼー疾走するいただけなさは払拭できない模様である。

こんなに必死になって走るのはいつぶりだったか。予選会や大会だってもっとリラックスして臨んでいたものだ。尤も、俺は短距離走者で、マラソンだのロードレースだのには縁がないので、ダラダラと走り続けることは早々ないのである。慣れないことはするもんじゃない。御陰で空気を吸い込むと咳が出るし、シャツの襟ぐりは汗ばんできたし、身体は重くなる一方だし。
減速しながらジャケットを脱ぎ、小脇に抱える。結び目に指を引っかけ、ネクタイを緩めた。これで少しは楽になった。


階段を一段飛ばしで駆け上がり、次は―――どっちだ。右か。足首の皮が抓られたみたいに疼く。こっちだ。

月下が(そして白柳が)見つからない、その意味に厭な見当を付けつつも、頭の中に張り巡らされ、絡まっていた糸は解れ始めている。解は非常に単純で、簡単だった。
他ならぬ俺の感情が、答えだったのだ。



右折して、まず初めに飛び込んできた部屋の表札を見、ぴんときた。足の感じは…、どうだろうか。意図的にここを行き過ぎなければ、正解か否かは分からない。だが、無視をするには、些か符号の合う代物だった。ならば信じるしかねえ、自分を。

「―――オラァ!ここかぁ!」

金属の把手に手を掛け、一気にスライドさせる。鍵が掛かってるなんてアタマは不思議なことに全くなかった。そして、踏み込んだ部屋には、直前の動作をしたままフリーズしている生徒会役員どもプラスアルファがいた。


「き、き、き…きみ、…君って、奴はあああぁッ!」

うお、耳痛てぇ!

「はいはい、落ち着こうな高遠」
「……あ」
「…あっ」

先制攻撃にいつまでもビビっているわけにもいかないので、ずかずかと部屋の中央まで進む。すると、いち早く復帰した生徒会副会長―――高遠が金切り声を上げた。まるでカマキリみたいな形相に思わず一瞬怯む。こいつこの声どこから出してんの。

ああっ、と間抜けたユニゾンの主は高身長とチビの凸凹コンビ。何となく、見覚えがある。で、俺も「あー」と指を差してしまった。どちらも月下繋がり。そうでなきゃ普通科の1年坊主なんて記憶に引っ掛かりゃしない。
金茶の髪の、キリンのような背丈の奴は、月下の弁当を受け取った男。色素の薄い双眸を目一杯広げ、肩を強張らせている方は、俺が不可抗力でふっ飛ばした犠牲者である。友達の友達は友達論法で行けば、奴らは未だにムカツクあのギャル男の友人なのだろう、多分。

チビの様子が尋常じゃないのを見てとって(致し方ないことだ)、キリンが彼の前にさっと立ちはだかった。まるで騎士のようだが、生憎と俺はてめえらには用が無い。

「…お、」
「今度は何の騒ぎを持ち込むつもりだ、久馬」

高遠を窘め、チビとキリンの前に機敏な身のこなしで割り入ったのは会長だった。太目の眉が気難しげに顰められている。分かり易く不快を示されて、俺は鼻を啜った。こいつの機嫌を損ねると色々と面倒だ。これから先も、すぐ後も。

取りあえずぐるりと室内を見回し、ここに居るのが前述の四人プラス俺だけであることを確認する。奥の扉は、資料室になっている筈だ。以前、「あいつ」はファイル片手にあそこから出てきた。…まさか隠れてるってことはねーだろうけど。

「ハコは」
「…白柳?」と見目は首を捻った。俺に倣うようにして、会室を見渡す。「…居ないな。ここには」
「お前らが来たときには」
「居なかった。…電話は」
「したんだけど出ねぇんだよ」
「そうか。しかし、なあ。…高遠、心当たりはないか」
「水落なら知ってるかもしれないけど、そもそも今日は活動日じゃないし」

じゃあお前ら雁首揃えて何やってるんだよ。全員の共通項なんぞクイズに出されても俺には分かんねーよ。

「…お前にも割と関係のある話だ、久馬。…そう、呼び出し掛けようと思ってたんだよ。丁度良い、」

言いながら、見目が椅子を引きずり出してきたので、俺は首を横に振った。アタリかと思ったが、違うのなら退却あるのみだぜ。あくまで直感だが、あまり悠長にもしていられなさそうだ。会長の説教教室はまたいずれ、だ。

「目下、俺は急を要する感じなんだよ。ここにハコが居ねーなら、他あたらなきゃいけねえんで、話はまた今度ってことで」
「おい、久馬…」

名残惜しそうな会長閣下に、ヒステリックに跳ね上がるトーンを抑え抑え、高遠が止めに入った。おお、たまには役に立つじゃねえの。と、思ったが、…銀縁の細身の眼鏡を僅かに下げ、口脣を引き吊り上げて、小馬鹿にするような風情で俺を睨め付けてきた。

「見目、放っておけよ。どうせ話したって聞きやしないさ」

普通にむかつく。こんなときじゃなければ、鼻から炭酸呑ませて口から出すぞオラ!の刑なぞ執行したいところだが、…繰り返し言おう。最早自分に言い聞かせている感もあるが、

――――俺には時間がね、え、ん、だ、よ!

「うっせえな、きゃんきゃんと。今度言ったらコーラだのサイダーだのを二度と飲めない身体にしてやっからな!」
「人を犬みたいに言うなッ!ついでに言うなら、僕は炭酸は飲まない!何故なら骨が溶けるからだっ」
「うっせえよクソ遠誰も聞いてねえんだよそんな話はよ」
「こら止めろ久馬。言葉の乱れは心の乱れだ。あまりクソクソ言うもんじゃない」
「――――……」

あれ。

「…カツアゲしてたの、シャケじゃなくてこの人の方なのかな…」
「…俺は空気になりたいんだけど」

ごにょごにょと煩い外野の声をシャットアウトして、俺は、ふうっと脳裏を過ぎった記憶の尻尾みたいな部分を懸命に掴もうとしていた。この、既視感。なんだ。何か―――、



- 57 -
[*前] | [次#]


◇目次
◇main



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -