走れ!



(久馬)

終業の挨拶ももどかしく、立ち上がるクラスメイトを掻き分けながら教室の前方へと向かう。生徒の質問にのんびりと答えていた剣菱は、勢いよく突っ込んでくる俺に目を瞠った。

「おや、どうしましたか」
「は、は…白っ柳と、月下は…っ!」

ホームルームが始まっても終わっても、二人の姿は一向に現れなかったし、担任も一言も触れなかった。つまりは、何らかの連絡が行っているってことだ。
あいつらが揃って不在ってのは、実際はもう驚くことではないのかもしれない。月下の家で見たように、月下と白柳は「そういう関係」なのだ。色々考えると腸が煮えくり返るが、…深く考えたって仕方がない。例えば過去、止めるタイミングがあったのだとしても、機を逸したのは俺自身だから。
だが、今日ばかりは。

「何か、あったんすか」

かろうじて、けれど、確かに聞こえたノックの音はまだ、俺の耳の奥に残っている。
扉とか、殻だとか――名前はなんでもいい、とにかく月下をよろうものが俺に向かって開いた証だったんだ、あれは。
問い掛けを無視しようと思えば、彼には出来た筈だ。手前で怒鳴られようが、ドアを蹴り飛ばされようが、膝を抱えてひたすら黙っていればいい。そうすれば俺はいつかは出て行ったろう。第一、個室の中に居るのが確かに月下だったという証拠は、厳密に言えば、今もってねえんだ。

でも、あいつはちゃんと応えてくれた。


だからこそ変だと言い切れる。あれは、月下真赭だったんだ。そして彼は絶対に俺との約束を違えたりはしない。そう、絶対にだ。

「何か…と言えば、」と皺だらけで重く垂れかかる目蓋を緩慢に開閉しながら、剣菱は俺の顔を覗き込んだ。「…まあ、君には伝えておくべきでしょうかねえ」
「早く、―――教えて、下さい」

危うく命令形になるところだったぜ。誰かの机の上に握った拳を置き、教壇に立つ老教師をぎっと睨み付ける。平生の、茫洋とした表情もこちらの剣幕が一向に収まらないので流石に不可解そうになった。フォローをしようなんてつもりは一切ない。早く。早く教えろってんだよ!

「…月下君は、早退だそうです。体調不良。確かに最近、顔色がよくありませんでした。直接は連絡を受けていませんが、家の人が途中まで迎えにくるとのことで、自力で帰ったようです」
「……」

先生の言うとおり、…無くはない話だ。

「白柳は」
「彼は…何とも困ったものでして。これは君にこそお願いしたいところでしょうかねえ。私の方に電話がありました。『今日はサボります』って、ねえ。自宅に掛けましたがご家族の方はいないし、仕事でご両親もつかまらないしで…ははは、困りました」
「……そう、ですか」
「ええ」

下唇を噛んで、黙りこくった俺の頭に、剣菱の視線が突き刺さっているのが分かる。周囲にいた同級生たちも俺たちを気にしている風だったが、結局は他人事だ。皆、部活へ向かったり帰宅の途についたり、だべったりしていた。

「携帯に掛けても出ないんです。明日はお説教ですかねえ…。久馬君は家、近いんですよね。もし良かったら様子を」
「―――センセー」

真剣に説教するかどうかも疑わしい口調へ、ふっと沸いた疑問に押されて噛みつく。剣菱は首を傾げた。

「あのさ、月下が早退するって話聞いたの、誰すか」
「…普通科の養護の先生です。名前は…ええと、何て言ったかな。野本…いや野方…」
「京良城、じゃねえ、キョーラギセンセーじゃないんですか」

特進科保健室の主の名を口にすると、首肯が返ってくる。

「どうやら普通科棟に居たようで。特進科に帰ってくるよりその方が早かったんでしょう。普通科から特進科保健室に連絡があって、そこから私の所に報せが来たんですよ」
「……」
「…久馬君?」
「……ありがとーございます…」

かちり、かちり、と脳味噌の中でパズルのピースが組み上がっていく。もう絵柄が分かるくらいにモノは出揃っている。剣菱が何か言っていたが、俺は背中を向けて歩き出した。教室を出、廊下を進む。

どの教室も放課後特有のまったりした雰囲気で充ちていて、ちょっと進むだけで「犬も歩けば云々」よろしく、生徒の肩や腕に当たる。時折、不審げな眼差しがこちらを射たが、それらは悉くスルーした。ぶつかっちまった奴には悪いが、余計なもんを頭に入れたくなかった。
まずは、何処だ?何処に行けばいいんだ。
歩みは段々と早くなり、呼吸のスパンが短くなり、

―――痛む左足を引きずりながら、俺は走り始めた。



野方、という女性の教員はすぐに見つかった。保健室で体調不良の女子を診ているところだった。中年で、眼鏡を掛けた恰幅のいい女だった。
ノック無しで入室した非礼を窘められたものの、月下の名前を出したら納得した様子だった。おそらく、「友人思いの特進科生」って判断になったんだろう。この際だ、何だっていい。

「ああ、月下君ね。…お友達?」
「…ええ、…ハイ」

来室者記録であろうファイルを取り出して、指でなぞっている。該当部分を見つけたようで、「五限目の頭に来てるね」と彼女は言った。

「もう帰っちゃったから此処には居ないけど。…流石に家に着いているでしょうから、電話してみたらどうかな。家の電話番号、知ってるよね?」
「つか、聞きたいんすけど、…そいつ、どんな顔してました?」
「…は?」
「いや、だから、そいつどんなツラしてましたか、って話なんすよ」
「……どんな、って」

あなた友達でしょう、と人の良さそうな顔に書いてある。…そんなの、充分承知の上だ。
生憎とプリクラや写メなんてのは趣味じゃなくて、俺の携帯電話のカメラフォルダは空っぽである。写真の一枚でもあれば話は早いのに。

「眼鏡、掛けてましたか?」
「…いいえ?確か…うん、掛けてなかった」
「愛想が異常にいいとか」
「体調が悪い子はあんまり愛想は良くないわねえ」
「……」
「…一体、どうしたの?」

訝しげに問われながら、必死こいて言葉を探した。身長は同じくらいだし、痩せ型という表現は二人ともに当てはまらなくも、ない。髪型だってそこまで特徴的じゃない。

(「…あ」)

「そいつの服、…どっかおかしくなかったですか?俺と、違う感じじゃなかったですか?」
「え?おかしい、って…同じ特進科の制服でしょうに」

長椅子に座って俺たちの遣り取りを注視しているセーラーの女は、俺の勢いに何処か怯えた様子だった。…でも、退き下がるわけにはいかない。ジャケットの袷を両手で掴み、着込んだベストやシャツまでもがよく見えるようにした。餓鬼がするみたいにひらひらさせる。

「タイとか…、そうだ、シャツとか!襟が丸いっつうか、詰め襟のシャツ版みたいなやつ着てなかった?…頼むよセンセー、思い出してくんねえ?」
「突然そう言われても…。…あ、でもタイは…してなかったかな。シャツまでは覚えてないけど」
「……そー、ですか」

タイだけじゃ確証にはならないか。一度だったか、月下もタイを外していた記憶があった。…確か、埜村と揉めていたときだ。

「…あなた、二年のキューマ君だったっけ?…どうしたの。何か、あったの?」
「…・いえ、別に。…何でもないです。お手数をお掛けしました」

こうなったら月下の家に行くべきなんだろうか。…いや、まだ結論を急ぐのは早い。虱潰しに思い当たるところを探して、彼の家に行くのは最後でもいい。じゃないと、「何かに」、間に合わなくなる。今度は機会を潰すわけにはいかない「何か」だ。

他の心当たりを思い浮かべてみる。社会科準備室は、無い。そうしたら普通科の教室か、…考えたくはないが、ハコの家か。
中座を詫びるつもりで女子の方を見遣ると、紅潮した顔をばっと逸らされた。面倒臭いので放置することにする。こんな初っぱなで挫けるわけにはいかない。

「あら、足引き摺ってるじゃない。湿布でも貼っていく?」
「平気です。すぐ、出ますんで。ほんと済みませんでした」

今日は割と調子が良かったのに、また左足首がじくじくと疼き始めている。他人から見てもそうと分かるのだから相当重症なんだろう。…月下にあんなことを言ったが、大学に入る前に強制的に辞める羽目になるかもしれねえな、こりゃ。

『久馬にとって、走ることって、…そ、それまでのことなのか…?』

まるで自分が辞めちまうみたいな泣きそうな顔で、聞いてきた姿が脳裏に浮かぶ。俺が走る姿が好きか、と問うたら幼い仕草で頷いていた姿も。

(「駄目だ、」)

まだ。…早く、次へ。
決意が散漫になりそうなところを堪え、思考を巡らせる。近いのは普通科か。確か1年10組とか言っていたな、あの頭の悪そうな1年は。


「あの子、生徒会だったわよね、確か」

「…はい?」


突然に――よく研がれたナイフがすうと差し入れられるように、野方の声が割って入った。

「うん、生徒会の子。月下君。ちょっと前に話した記憶があるもの、見目君と一緒に」
「…サカシタが、ですか?」

我ながら情けなく震えた声だった。何も知らない教師は、噛み合った記憶に満足したようにうんうんと頷いている。

「そう。でしょう?役職まではよく分からないけど、覚えてるもの。確かに、そうね、前逢ったときはとっても愛嬌があったね」
「…――センセ」
「あの見目君が困って…って、えっ、なに?」

「…ありがとうございますっ!」

音のするほど深々と頭を下げ、後はもう振り返らないで保健室を走り出る。スリッパから革靴に履き替えている間も惜しい。


予想の通りだ。
月下は保健室になんて行っていない。来室したのは白柳だ。


特進科の養護教諭だったら、月下のみならず大抵の特進科生のツラを覚えているだろう。でも、普通科の教師なら別だ。千人を超える普通科生だって怪しいのに、担当じゃない特進科の生徒なんて生徒手帳と突き合わせでもしない限りは、余程の関わりがなきゃ分からねえだろう。運悪く(俺にしては幸いにも)、生徒会執行部なんて目立つポジションに居れば別だが。
眼鏡を外したのは妙案だったかもしれんが、人の記憶までは弄りようがない。
ハコは月下のフリをして保健室に行き、早退の届け出を出した。授業中なら如何な剣菱でも連絡の取ることは出来ないからな。自分は、適当すぎる理由でフェードアウト。これも、翌日の説教は回避できないにしろ、今日一日は時間が稼げる。…つまり親友は今日でケリをつけるつもりなのだ。俺と、同じように。

「…は…っ、はっ、はっ、はっ…」

スラックスのポケットから携帯を取り出し、ハコの番号を呼び出す。出る筈はないと分かっていても、手は勝手に動く。
案の定、「お掛けになった電話番号は電波の掛からないところか…」とメッセージが流れてくる。次は白柳の家だ。顔見知りの家令さんは努めて穏やかに「壱成様はまだお帰りではありませんが」と教えてくれた。悪戯電話みたく、こちらがぜえぜえと喘ぎ混じりなのは奇麗に無視していた。流石はプロだぜ。
月下のメモリを探そうとして、彼の番号など初めから知らないことに思い当たった。俺と彼は数月前までは口さえも聞かない関係だった。俺は月下のことが苦手だった。
嫌いだと、思っていた。

…乱暴に蓋をスライドさせ、元あった場所へ突っ込む。

「…クソッ!」

二人が一緒に居るであろうことは分かった。そして、多分、月下の本意じゃないってことも。だったらあいつらは何処に居るんだ?白柳家の家令は頼まれたからってくだらない嘘を吐く人物じゃない。仮にハコが家へ連れ込んでいたとしても、ぐったりした月下を抱え込んできたら普通に何かと疑うだろう。

月下、月下―――――何処だ?!

「……・?!」


…くん。


「…へ?」


普通科から共有棟の一階を抜け、取りあえず特進科棟に帰ろうと渡り廊下に足を踏み入れたところだった。リノリウムの廊下はがらんとして、突っ立っているのは俺だけだった。間抜けた声も高い天井に反響して他人のそれのように聞こえる。
特進科の方へ一歩踏み出すと、僅かながら抵抗感があった―――、

痛む筈の、左脚に。

スリッパにすとんと降りた灰色のスラックスを見下ろす。別に何があるわけでもない。外傷だってないと医者は言っていた。ストレスみたいなものかもしれませんね、とも。
この感じは、今までも何回かあった。大抵、この、引き攣れるような、引っ張られるよう感触の後には、…彼が居た。


(「大抵か?………―――違うだろう!」)


そうだ。…「いつも」だ。




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