冷たい針金



(月下)


「…う、…」

眼球のレンズが曇り硝子にでもなったみたいだ。確かに目を開けている筈なのに、視界がやけにはっきりしない。初めは反射的に、次第に確たる意思を持って瞬きを繰り返した(ちょっと前に同じ動作をしていたようにも思う)が、辺りは暗いままだった。

そのうち、段々と理解が追いついてくる。昼間にこの暗さは異常だ。そして、僕の目がどうにかなったわけでもない。…此処が無明の場所なのだ。
不思議なもので、一つ正しい認識が出来ると、身体の他の部位も次々と情報を拾ってくる。頭の芯はぼんやりとしていて、僅かに吐き気がする。つん、と黴臭い匂いが鼻を刺し、耳には潮騒に似た機械音が届いた。ざぁぁぁ、ときりなく聞こえていたのはそれだったのだ。
まるでプールから上がった直後みたいに身体全体が鈍重に感ぜられる。ならば痛覚だって鈍ってしまえばいいのに、上腕や胸にじんわりとした痛みがある。地面は硬く、ずっと此処に座り込んでいたら骨の髄まで固まってしまうんじゃなかろうかと思う。
寒さも、相変わらずだった。そう思って、いつと比べて相変わらずなのかと不思議になる。思考がどうにも定まらない。

(「…あ、れ…?」)

起き上がろうとして―――――失敗した。
僕は床にじかに腰を下ろしているようだった。推測表現になる理由は、ただひとつ、自らこの暗い部屋に来た覚えが無かったからだ。僕は、トイレに居た筈だ。そう、1学年のトイレの、個室に居た。扉を挟んで、久馬と喋った。放課後になったらきちんと話をしようと彼は言い、僕らは別れた。

立ち眩みを起こして便所の床に昏倒していたのなら、唐突ながらも無いとは言い切れないことだ。まともな食事も睡眠も縁遠かった最近の自分には、充分に起きうる話だから。
でも、違う。ここはトイレじゃないし、保健室でもない。
暗闇に目が慣れると、漂っていた黴臭さ、埃っぽさの原因が分かってくる。
首をぎこちなく動かして確認した限りでは、そう広くない部屋に思えた。所々に赤錆の浮いたスチールラックが僕を取り囲むみたいに並び、その棚の奥は完全な黒に飲み込まれていて、詰め込まれた本の背表紙が永遠に続くような錯覚を抱かせる。視線を上にあげれば、蛍光灯が風化しかけの骨のように天井に張り付いていた。剥き出しの脚の隣に、剣菱先生が使っていたのと同じ型の椅子が置いてあった。ただ、こちらは背もたれの皮が剥け、座部の中綿がはみ出している。


…剥き出しの脚?


「……ひっ!!」

寒さを感じるのは当たり前だ。切れ目のないこのモーター音はおそらく空調で、だからこそくしゃみのひとつもせずに済んでいたのだ。
僕の貧相な脚は剥き出しだった。フレンチグレーのスラックスは何処にもなく、濃灰色の靴下だけが足先に取り残されている。革靴の片方は視界の端に転がっていた。まるで事故車両みたいだった。対のもう一方は見あたらない。
そして、最も信じがたいことなんだけど、…下着も、ない。
ジャケットとベストを失った上半身は、カッターシャツひとつを身に纏っていた。青いアスコットタイは首元にだらりと掛かり、前の袷はすべてボタンが外れている。白い幽鬼のような膚が、ぼうと闇の中に浮き上がっていて、見たくもない自分の貧弱な体躯に、僕はえづききそうになった。
そんなシャツ一枚を引っかけている恰好は唯でさえおかしいのに、異常性を増しているものがもうひとつある。

(「…な、何だ、…これ…」)

僕が何よりも厭うている赤い縄、アレと同じ色の―――本物の縄に、シャツの上から戒められていた。首から垂れて鎖骨のすぐ下、胸の間で結び目を作り、腹を幾重かに巻いた後で、脇腹から背中に回っている。上腕や胸板もぐるぐると括られて、血色の悪い膚身が尚のこと蒼く見えた。
足首に至っては、「赤い糸」とリアルのそれが絡んで吐き気を催しそうな眺めだった。股を開き、膝を立てた体勢で太股に巻かれた縄ときつく連結している。ワイシャツの、あの中途半端な長さが無ければ醜悪な下肢を晒す羽目になっていた。

「…く、…っう、」

縄の何処かは椅子の対なる事務机と結びつけられているみたいだ。解こうにも、後ろ手に縛られているようで身動きが取れない。試しに左右に身体を揺すぶってみたが、背中に冷たく硬い感触が食い込むだけだった。前傾すると首が絞まる。縦横に奔る赤い線は絡まることも撓むこともなく、芸術的な精確さでもって僕を捕らえていた。

「………」

あまりの惨状に、何と言うか、――――感情が麻痺している気がする。恐怖とか焦りとか羞恥のようなものを感じるべきなのだろうが、その為の器官がぽっかりと陥落してしまっている。圧迫されたことによる痺れと痛みだけを、こころもからだも、知覚している。
(そして、ぼくはどこかで、原因の在処を理解している。)
例えばこれは悪い夢で、目を閉じて次に起きたときは保健室のベッドに寝かされていたりしないだろうか。汚いけれどトイレの個室でもいい。ちゃんと目醒めることができて、…約束に間に合うのなら。


『こんなあほらしい場所じゃなくて、…もっと、ちゃんとしたとこで。お前の顔を見て話したいことがある。俺としては、割とすぐに、な』


「…きゅう、ま…」

大切なこと。
今の自分にとって、唯一のスイッチ。
僕がすべきことは何だ?
此処は何処で、今は何時だ?
此処に僕を連れてきたのは、誰だ?


僕は深呼吸をした。吸って、吐く。あまりきれいとは言えない空気が肺を満たして、出て行く。幾度か繰り返した後で、もう一度辺りを見回した。

…ちゃぷん、と水の音がする。

「はこやなぎ」
「…うん」

闇が蠢いたように見えた。影の深くなっているところに、長い脚が投げ出されている。棚に背を預けて長座をしていたそのひとは、らしくなくおざなりな動作でペットボトルを呷った。意識が遠ざかる寸前に、彼を見たと思ったのは、…やはり幻じゃなかったんだ。

「これ、解いてくれ」
「駄目」
「どうして」
「どうしてだと思う?」
「……」

人の動く気配がして、すぐに、すらりとした姿が現れた。
酷く遠くにいるように思えたのに、革靴の爪先はたったの数歩で僕の真正面に到着した。かち、かち、と何かが接触する音がした後、背後からやわらかな光が射す。机上に明かりがあるみたいだ。部屋そのものは相変わらず暗いままだ。

「はこやなぎ」
「うん」
「…おかしいよ。…こんなこと…する、なんて」
「そうだね。おかしいんだろうな。サカシタがそう言うのなら」

彼の声はあまりにもいつも通りで。口下手で不器用な僕が話しやすいように、極限まで角を丸めた物言いをするところまで、全く変わりがなかった。
顔を見ようにも、立ち尽くす彼のそれは光の届かない範囲にあって、わからない。必死に顎を上向けると、またしても首が絞まった。口腔に溜まった唾液ごと嘔吐感を飲み下していたら、友人は静かに笑った。

「それね、動くと色々絞まるからやめた方が良いよ」
「…苦しい」
「ごめん。でも仕方ないよ。俺は自分がそんなにおかしいとは思っていないから、異常性を認識しろと言われても、どだい無理な話でしょう?」

歌うような口調はひたすらに優しい。泣きたくなるほどだった。でも、久馬のときみたいにぼろぼろと泣き出すことはなかった。いつか僕の頭から足の先までを刺し貫いた冷たい針金が、奇しくも狂乱を押さえ込んでくれていた。
針金は、絶望の色をしていた筈だ。

「…君に話さなくちゃいけないことがある」

久馬が僕に話があると言ったように、僕もこのひとに言わなければならないことがあった。校外研修までの間、と取り決めた、生温く居心地のいい―――ずれた関係、その清算を。

提案された猶予に乗っかることで、分かったことがたくさんある。…失ったことも、あるだろう。すべて僕が選択したことだ。誰の所為でもない。
僕は久馬が好きだ。「赤い糸」が原因かそうではないかは、やることをやった後で考えればいい。いつ解けるか分からない魔法を、いつだろういつだろうと恐れて待ち暮らすのはもうやめだ。不安は確かにある。この感情は嘘かもしれない。
それでも、魔法に掛かり続けている間は、それが真実だと思いたい。

「…随分と落ち着いた顔になっちゃったな」

友人は何事か呟きながら、僕の脇に膝をついた。ようやくまともに見ることができた彼は、自分と真逆に制服をかっちり着込んでいた。灯りを受けて、眼鏡のレンズは鏡みたいに像を飛ばしている。構わずに彼の顔を凝と見ていると、手が伸びてきた。冷たい掌に頬をゆるゆると撫でられる。

「俺も、月下に話そうと思っていたことがあるんだ」

今度はちゃんと聞き取れる音量だった。それに少し安堵して、僕は彼に頼んだ。

「なあ、こんなところじゃなくて、…もっとちゃんとしたところで話そうよ。寒いし、…痛いよ、白柳」
「…忍と、するみたいに?」
「――――ッ?!」

顎のえらがぐっと掴まれる。
痛みよりも早く襲いかかってきたのは水、だった。

「…っは、…ぷ、は!」

僕の顔を上に捻ると、彼は逆さにしたペットボトルの中身をぶちまけた。顔から首、胸までがしとどに濡れる。何とか視力だけは取り戻そうと目蓋を開閉している内に、口脣に湿ったものが押し当てられる。半端に開いていた口へ、他人の舌がぬっと這入り込んできた。この数日間で慣らされた感触が、僕の舌に絡まって咥内を蹂躙していく。

「…ふ、…んむっ、はっ…」
「…お前が話すことなんてなんにもねぇよ」

方向を変えてキスが深くなるたび、彼の眼鏡が鼻柱に当たる。突き放そうとしても自分は芋虫のようなもので、身体を押し付けられてしまえば、逆らいきる方法は相手の舌を噛むことくらいしか思いつかない。でも、歯をたてるタイミングがいつかなんて、分からなかった。勢い余って自分の舌まで噛み切りそうになる。
くちゅくちゅと舌肉を吸われ、二人分の唾液が口脣の端から零れ始めた。元より濡れているから、意味なんてないのかもしれない。息が怪しくなって、意識が白む。

「白柳…っ、いや、…や、だ…っ…」
「あれ、初めて慌てたな」と彼は不思議そうに言った。「…あんまり落ち着いてるから、あいつに助けに来て貰えるとか、そういうくだらねーことでも考えてるのかと思ったよ」
「そんな、…っ、うあっ?!」

縄で押さえつけられていたシャツが、両側から引き剥かれた。縛られた箇所に布が擦れて物凄く痛くて、思わず悲鳴を上げる。

「あいつと話す前に、俺がお前を滅茶苦茶にするから。そうしたら、俺のいちばん大好きな真赭が見れる」
「…は…、はあっ、はあっ、はあっ…」

彼の、一番好きな僕?

「そう」

どんなに呼吸を整えようとしても、ぜいぜいと聞くに堪えない喘鳴しか出ない。人影が落ちる。屈み込んだ友人は、肩を揺らして喘いでいる僕の首元に顔を寄せた。平たい胸を無遠慮に掴まれる。反射的に仰け反ったら彼は嬉しそうに喉を鳴らした。

彼は、

―――白柳は、嗤って、そしてこう言った。

「言ったでしょう?…正直なところから慣らしていこうね、って」



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