ふたりX



(月下)


…ザ――――――。


(何の音だろう)

『いちいち洗うの面倒くねえ?』
『…でも、こうすると帰った時、楽、だから』
『…ふぅん』
『久馬の、お母さんも、…きっとやってったら楽だと思う』
『んー…。気が向いたらなー』
『…はは』

冷たい水道水の感触が掌に甦る。あれは、僕と久馬だ。
新蒔を巻き込んだ諍いが起きる前、昼食を一緒に摂るようになっていたときのこと。城崎は風邪をひいて欠席で、白柳が家の用事だとかで午後から登校してきた日だった。
僕に用事がある時は、彼は大抵白柳を通して用事を済ませていたのに、その日だけは珍しくも自発的に話しかけてきた。通訳代わりの親友が不在だったから、やむにやまれずの結果だったのかもしれない。何にしても珍しかったから、よく、覚えている。

天下の特進科と言えど、流石に廊下据え付けの水道から湯が出ることはなく、僕はかじかむ指を騙し騙し、弁当箱を水洗いしていた。ふらっと教室から出てきた久馬は、別段面白い眺めでもなかろうに、校舎の柱に寄りかかってこちらを見ていた。彼の視線が当たっている側の頬は行火(あんか)を押し当てたように熱い。

『お前、本当料理好きな』
『うん…。…逆にこれくらいしか、やれることないし…』

それに下手の横好きみたいなもので、手先の器用な女の子とか、本式の勉強をきちんとしたひとに比べたらずぶの素人でしかない。だから新蒔や白柳が手放しでうまいと言ってくれるのが、時折酷く恥ずかしくなる。

『久馬のお兄さんって、…その…どうやって「金の麦」に入ったんだ?』
『あー…。なんか大学一年で退学して、親と大喧嘩して専門行ってさ。その後海外のレストランに潜り込んで。日本食の店で働いてるときに、今の会社のマネージャーが飯食いに来て、「金の麦」に引っ張られたんだってよ』
『…そっかあ…』

軽く水切りをして水道台の縁に弁当箱を積み上げ、ハンドタオルで手を拭った。自らの努力もあったに違いないが、彼のお兄さんは強運の持ち主だと思う。逢ったことすらないけれど、よく似た兄弟なのではないだろうか。その意志の強さや運を引き寄せる力は、弟たる久馬にも備わっているような気がする。

『お兄さんも、久馬も…凄いな』
『は?』と彼は素っ頓狂な声を上げた。『…何で、俺?』
『だって県大会とか、インターハイとか…凄いじゃないか。毎年、学園の壁にも横断幕出てる。一年の時から見てた』
『…まあ、な…』

そう言って、彼は、形のよい頭を教室や廊下へと忙しなく向け、一歩僕の方へと近寄った。当然、距離は詰まり、僕の呼吸も怪しくなる。この距離感に慣れることが最後まで無かったことを思い出す。

『俺、陸上やめるけどな』
『―――――っ、えっ?!』

久馬が、はしるのをやめる。もう、あの姿を見ることはない?

『し、』

ひたり、と口脣に指が当てられた。冷静な眼差しをした久馬の手が僕の口へ封印を施すように触れている。火炙りの直後に冷水を頭から浴びせられたような気分だった。


『まだ先生にも言ってねーんだ。知ってんのはお前とハコだけ』
『…、…っ』

目を見開き、肩で呼吸をしている僕のそれが、段々と収まってきたのを見て取ったのか、彼の指がそうっと離れていく。整った顔立ちのどこにも、爆弾発言をした気負いのようなものは無かった。それだけに、久馬の中で以前から確かに決まっていたことなんだ、って分かってしまう。目尻がぴりぴりと痺れ始めた。…涙が出る前兆だ。

『…なんでお前がそんな顔すんだよ。月下』と彼は笑った。
『だ…って、…そん、なっ…』
『始めたときから決めてたんだよ。…大学に行ったら止めようって。それまでは全力で走ろうってな』

支えにと掴んだ水道台の縁は氷のように冷たく、現実感がいや増した。僕はそこを、鷲が餌を掴む執着をもって爪を立てた。じゃないと、身体が崩れ落ちてしまいそうだった。


彼の走る姿は僕にとって憧れで、理想で、絶対に手の届かないものの象徴だった。

「赤い糸」のことがあって、徒歩で登校を始めてからずっと、早朝の練習風景を眺めるのが日課だった。何億光年も先の輝きを、目を凝らして見ていた筈が、ふとした時に、その星と自分が繋がっていたという悦び、―――恐ろしさはどんなに言葉を連ねても表現できない。強いて言えば、彼と対峙するだけで、…糸の存在を認識するだけで、自分という形が溶けてどろどろになって、相手の方へ、ひたすらに引き寄せられていくような感じ。

でも、彼はやめると言った。
誰にも追いつけないところまで行ける力を、自ら放棄するのだと言う。もしも僕だったら、そんなの怖くて手放せない。自己証明の唯一を捨て去ってしまうみたいで。

…久馬にとって、「走る」ということは、それだけのことなのだろうか?

『まあ、それだけっちゃそれだけだな』
『……』
『たまたま走ったら速かった。速いと面白いからまた走る。そうすると勝てるし、大会にも出れるし、評価も上がる。で、また面白くなる。…だけど、他にもやりたいことがあんだよ、俺は。別に厭なわけじゃねーんだ。ただそれだけのことだ』

危惧していた回答はぴたりと当たった。こんなときばかりうまくいっても、ちっとも嬉しくない。

『…そ、…っか』
『お前は進学とか、どーすんの。あ、俺は四大行く予定。日夏でもいいし、外部受験でもいいけど』
『僕、…僕は、…専門行こうかと思ってる…。まだ、ちゃんとは決めてない…』
『ふぅん』

ショックに軋んだ顔を見られたくなくて、目蓋を閉じて俯く。ぎゅっと瞑った場所に力を籠めるとその裏に溜まった涙が零れそうになる。
彼と僕とは、違う。性格も容姿も、才能も、居場所だって。そんな久馬と僕を比較することがおこがましかったのだ。…端から分かりきっていたことじゃないか。何を、今更、落ち込むことがあるんだ?


『…いいよ、な』
『え?』


ぽつり、と転がり落ちた呟きに、ほんの少しだけ顔を上向けて彼を見た。久馬は少し首を傾げたような姿勢で、腰に手を当てて、僕を見下ろしている。とても穏やかな目で。

『兄貴も、お前も。…俺、そこまでじゃねーもん。逆に、ずっと続けたいって思うほど好きだったら良かったな、って思うわ』
『……』
『そんなんだったら続けろよ、って思うだろ?…でも多分、もう無理だ。三年だったら、三年。大学入るまでだったら、そこまで。自分のことだから分かる。それ以上やると嫌いになるし、絶対飽きる』
『ぼ、僕だ…て、そんな、…ちゃんと決めてるわけじゃ…』

特に突き詰めたいと思っている分野や科目が他にあるわけでもないし、四年間、興味のないことの為に勉強が出来るとは思えない。単純に、僕にはそれしかないだけだ。

久馬は片方の口元の端だけを悪戯っぽくきゅっと吊り上げ、隣に回りこんで来た。蛇口を捻り、コックを回すと水が一気にあふれ出てくる。やや肉厚な口脣が飛沫に触れるのをまじまじと見ている内、身体の奥底に眠っていた熾火が舌をちらつかせだした。
…駄目だ。やめろ。
そうしても欲を押さえ込めるわけでもないのに、堪らず掌で顔の下半分を覆う。吹き上がった熱で意識まで白く焼かれるようだ。

『俺が走るの、そんなに好きか』

音を立てて喉を潤しながら、彼が問うてくる。……黙って頷く。

『…そっ、か。だから…見てるんだな』

本人にそんなこと話したっけか、と訝しく思ったのは一瞬だった。姿勢を起こした久馬は、全力で目を背けている僕の視界にひょい、と侵入してきたのだ。

どんなに瞬きを繰り返しても、その表情を切り刻むことは出来ないと思った。傲岸不遜で男っぽくて、…でも、何処か幼さの残った笑顔。僕の、大好きな。

『見たかったら言えよ。二百くらいならいつだって走ってやるから』
『…っ、え、…あ…』
『その代わり、お前も――――』

久馬。早く水栓を捻らないと、水が出っぱなしだ。絡まってしまった視線に怯えて、僕は悪戯に手を彷徨わせた。硬いプラスチックの感触が触れ、あっと思った時には消えていった。かつん、がちゃん、と立て続けに背後で落下音がする。彼はまだこちらを見ている。水は流れっぱなしで、ざあざあと無遠慮に、耳に入り込んでくる。温く優しく、でも、一切から僕を断絶するべく聴覚を奪っていく。耳鳴りか、とすら思う。
脳味噌が糊化したみたいに、思考がうまく働かない。身体も節々が痛い気がする。そして極めつけに、寒い。もしかしたら制服の袖が浸かってしまったのかもしれない。
僕は水の流れる音を必死で探る。そのすぐ脇には久馬が立っている筈だった。



ああ、でも、――――…今はノイズにしか聞こえない。



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