トリガーT



(月下)


「なあ、そこに居るんだろ、…月下」


蓋の強度を案じる余裕もないほどに、僕は惑乱していた。体躯座りの要領で、脚を折り畳み便器の上に座る。下から覗き込まれでもしたら、中に居るのがばれてしまう。いや、鍵か掛かっている時点でひとが居るのは明かなのだが。

(「どうして、なんで、なん、で、久馬が…?!」)

クラスメイトに知られるのが厭だから、1学年の階に来ているのに。第一、ここに来たことは誰にも言っていないのに。何故、彼は僕の居場所が分かったんだろう?

思わず左脚を見遣る。赤い赤い糸がしっかりと絡みつき、先ほど僕が恐れたドアの下から這い出ている。これがあれば、ある程度の距離なら相手が何処に居ても分かる。
…まさか、そんな訳がない。
彼には「赤い糸」を視るちからなんて無いのだ。
だけど、もし―――僕が受けた感覚、久馬が近付いたり、離れたり、彼のことを考える度に連鎖する感覚が、久馬にも発生していると仮定すれば、何らかのヒントにはなっているかもしれない。

違う、問題の本質はそこじゃあないんだ。
何故、彼が僕を追い掛けてきたか。それこそが、問題なんだ。

「…返事、しねえ…っつか、出来ねえなら、いいわ。そのまんま聞いてくれ。人払いしてあっから、俺とお前しかここには居ないから」
「……」

一体全体どうやって誰も来ないように計らったのか分からず、さらに混乱してしまった。尤も、彼であったらそれくらい何とかしてしまえるのだろうが。
久馬から見えている筈もないのに、僕はさらに身体を縮こまらせた。薄い、プラスチックの蓋が非難がましく軋み、背筋が凍った。

「ええと、まずは。…なんか最近、シカトして、その―――、」

久馬はそこで言葉を区切り、たっぷりと溜息を吐いた。

「…悪かったな」
「―――…っ!」

タイル張りの壁に反響して、彼の声はぼわぼわと膨らんで聞こえる。そこに入り交じる、僕が息を呑む音すらも。

「言い訳がましいけど、俺的にはさ、無視したわけじゃねえっつうか、」革靴の硬い部分がかつり、と鳴る。「…自分の中の整理がついてねえと、お前と口もきけなかった、って感じで。でも、まあ、結果としてはシカトしちまったわけだから、これについては…謝っとく」

淡々と紡がれる台詞を聞いている内に、しっかりと腕で囲っていた筈の脚がずるずると落ちていった。勢いよく地面に着地した足の平が、べちん、と弁解しようのない音をたてた。「…月下?」と久馬が心配そうに呼びかけてきたが、何を言うことも出来なかった。
腰を屈めた――客観的に見たら相当情けない格好で、僕は前方へと腕を突き出す。掌に氷の壁みたいに冷えたドアが触れる。そこを支えに、身体を起こす。涙が、思い出したように溢れてきた。ぼろぼろ、ぼろぼろ、と後から後から、体中の水分を消耗しかねない有様で滴が落ちていく。タンパク質、リン酸塩。僕の血液が失われていく。


毎朝、きみの姿を見るのが楽しみだった。自分に出来ないスピードで、うつくしさで、ゴールの先を行くようにして走る姿に憧れていた。放課後、準備室で二人きりで話したのが都合の良い夢みたいで、…今でもあれは現実だったのかと思うほどだ。お兄さんのことを嬉しそうに話すさまも、行き先を思案する僕をふんぞり返って待っているのも、あまりの距離の近さに息が詰まりそうなくらいで。一緒に弁当を食べた。ちょっとしたお喋りで僕の肩や背中をはたいてきた。全部全部、取りこぼしがないくらいに覚えている。

君から遠ざかろうと思ったのは、『赤い糸』だけが理由なんじゃないんだ。
糸の所為でもなんでも構わない、とにかく久馬が好きだ、そう思ってしまったら、僕は何処にも行けなくなってしまう。ただの友人として、君のとなりにも居られない。少し前までのように、かろうじて視線が合うかどうかの関係に戻れるほど強くもない。


でも、すべては遅すぎる。

好きだ。…何がどうあっても、僕の頭や心がおかしくなっていても、

きみが、すきだ。


(「…ああ、…でも、」)

首の根元が鈍く痛んだ。まるで罪科を糾弾するようにだ。
扉に額をつけ、タイを引き抜き、シャツの襟を緩める。鎖骨のあたりにゆっくり力を掛けていくと、じんじんとした痺れはより酷くなった。鏡で確認しなくたって分かる。そこには噛み痕がある筈だ。

かりそめの恋人たる、あのひとの残した証。


(「ほんとうに、…遅すぎる…」)


「それで、…お前と白柳のことなんだけど」
「―――…」

来た、と思った。彼に知られていない筈はないのだ。白柳が自ら言う可能性は多分にあったし、そうじゃなくても久馬の周囲に知られている様子はあった。

急速に全身から力が脱けていく。額を擦りつけながら、膝が頽れそうになるのを必死で堪える。トイレの扉には勿論何のとっかかりもなく、僕は緩慢に崩れ落ち始めていた。スラックスの膝頭が床につくことなんて、どうでもよかった。このまま骨も肉もぐずぐずに失ってしまって、ただの土塊にでもなってしまえばいいと真剣に願った。

祝福されようが、真逆に気持ちが悪い、と罵られようが、僕にとっては大差ないことだ。これが今までのツケの総決算だとしたら、裁量を下した何者かは残酷で、優秀だと思う。むしろ手を下したのは他ならぬ僕自身だとして、引いた引き金の結果が、今、この瞬間なのだとしたら―――納得がいく。

「あのさ、月下、」
「……」
「お前、なんで飯喰ってねーの?」
「…、…?」

え?

「ずっと気になってたんだけど。なんで飯喰ってねえんだよ。あいつがどんなに誘っても行ってねーみたいだし、…かと言って剣菱んとこにも居ないみたいだし。普通つきあってて、うまくいってたら、金魚のクソみてえに何処でもついてくし、飯だってうまいだろ」

…彼の喋っている言葉は分かるけれど、内容がうまく入ってこない。
非常に無駄な行動だったが(ということは後々回想して思ったんだけど)、僕はいっそう扉に身体を押し付けて、一言一句、久馬の言葉を聞き漏らすまいとした。不思議と、相手の息づかいが聞こえてくるような気がしていた。僕らは不可視の、けれど、とても薄い膜を境にして向かい合っているようにすら思えた。

「なのに、お前ガリガリ痩せてくし。顔色も悪ぃし、その癖白柳には付き合ってるし。…つか、もし食欲無えのが俺の所為だったら、こっちも悪かったって話で。…明日っから、ちゃんと喰えよな。あー、もし、俺が懸案事項の所為だったら、って仮定で言ってんだからな。違ったら流せ。つうか、…忘れろ」

僕がご飯を食べていないと、久馬はどうして知っているんだろう。白柳にだって言っていないし、…彼にはばれなかった。「少しだけれど食べている」と答えたら得心していたのだ、白柳は。

「あとさ、お前、あいつのこと…マジで好きなわけ?」
「…!」
「や、別に悪ぃとか言うつもりねーし。ホモだとかそういうのも、どうでもいい、俺は。―――でも、お前さ、

…全然楽しそうじゃねえよな」



―――久馬。



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