夜の聾



(久馬)


夜の住宅街はひっそりと静まりかえっている。艫町は俺の住んでいる船倉のあたりより、家々が密集し、道も狭い。古くからある区画なのだ。ざくりざくりと、響くのは自分の足音で、暗闇の中でも白くけぶる吐息が現れては散っていく。ペースを緩め、腕を大きくストレッチしながら、競歩の要領で歩く。寒さと乾きの所為か、瞬きがいやにぎこちない。眼球がしぱしぱする。

特筆すべき目的があってこっちに来たわけじゃなかった。
家の近辺から始めて、海の方角へ向かった結果だ。河浦港まで出ても良かったが、糞寒い海辺に行く好きこのんでいくような趣味はない。夜の海は恐ろしい。黒いうねりがコンクリートの縁を叩く様というのは、今日みたいに無風の日でも中々に恐ろしい眺めなのだ。

ただ、実感として、艫町に入ってから足の負担感が無くなっているのは事実だった。朝や放課後の練習もこなし、これだけ身体を痛めつければ流石の俺とて疲労もする。だのに、今は痛んでいた左足首も含めて快調、…少し調子が良すぎるくらいだ。なんだこれ。

艫町、と言えば彼の住んでいる家もある筈だ。あんな変な苗字だから、一軒家、かつ一般的な表札なら探すことも出来るかもしれねえな。でもアルファベット表記とかマンションだったらまず無理だ。いや、別に探すつもりもねーんだけど。

と、セルフ突っ込みをしながらも歩き続けていたら、目の前の角を車のサーチライトが照らして過ぎっていった。街灯の下に動く暗闇みたいな塊が、ぬっと現れ、また夜の中に戻っていく。

ファントムだ。ロールスロイス・ファントム。

艶やかなボディに歯の揃った櫛みてえなラジエータ・グリル。その上には腕と同化したような羽を広げる精霊が立っている。一台五千万超の阿呆みたいな値段の高級車は、見た目に合わない超低速で徐行していく。

「……」

俺は、思わずロールスの後を追った。それと悟られない程度に距離を置き、隘路を活かしてついていく。
日夏学園というランドマークを背負ったこの街には、お高い車を乗り回す金持ちが腐るほど居る。最近の時流に乗って、エコ車が増えつつあるが、それでも、アストン・マーティンDBだの、ブガッティ・ヴェイロンやエドニスなんていう日本の公道に置くと笑えるくらいのギャップを見せてくれる車がちらほら見られるのだ。ブガッティなんて億だぜ、億。買うかよそんなもん。うちの家計じゃどだい買えねえ代物だけどよ。
だがあの古式ゆかしいロールスの持ち主を、俺は、知っているのだ。
高台の上に鎮座まします石造りの洋館に住む変態―――あれは、ハコん家の車じゃねえか。


コンクリート塀を自らの身体に写し取りながら、車は静かに停まった。場所が場所なだけに、狭苦しそうにしている。俺は標識に身を寄せ、ロールスの尻を見つめた。ハザードがちかちかと明滅し、車内灯が中の人影を浮き上がらせた。後方部のドアが開く。

(「…やっぱり…」)

果たして、中から現れたのは白柳――、そして、月下だった。
思わずウェアの袖を捲り、腕時計を見やった。蛍光の文字盤は十一時を回っている。…学校帰りを送ってやったとしたら、遅すぎだ。
細い道の所為で、片側の扉は開かないようだった。まず、ほっそりしたシルエットのコートを羽織ったハコがするりと降りてきて、車内に頭を突っ込む。少しの問答の後、引き出されるようにして月下の姿が出てきた。上半身は制服のジャケットだと分かるが、どうも下のスラックスは違うような、気がする。あくまで気の所為かもしれんが。

手を繋ぎ、引っ張り出された彼は夜目にも分かるほど、憔悴している。月下の頭は歩く度にぐらついた。腰を抱かれ、ハコに寄り添うさまに俺は、己の太股に爪を立てた。

「…辛い?月下」
「…だい、じょう、…ぶ…」

おいおいちっとも大丈夫そうじゃねえだろうよ。弱々とした声はいつもに増して力が無く、掠れていて、足取りだっておぼつかない。腰や足を庇うような歩き方だ。それでも月下は自らステンレスの戸に手を掛け、開いた。ハコは愛おしそうに彼の細い腰や脇腹を撫でている。

「普通あそこで我慢するか?…それとも、後で一人でするつもり?」
「違…っ、…は…っ」
「おっと」

言った傍から頼りない手首ががくん、と折れ、痩身が崩れかける。そこを親友が慌てて支えた。

(「…チッ」)

すんでのところで飛び出しそうになった自分の足を必死に止める。あんなに楽になっていた左脚が加速度的に痛みを訴え始める。くそ、なんだってんだ、こんな時に!

「ほら、大丈夫?…明日も、迎えに来るから。もし身体しんどいんだったら、休んだ方がいいかもな。そしたらうちに来なよ。俺も付き合ってさぼるわ」
「そ、んな…ほんとうに、平気、だから。…親、居るから。あの、白柳、ここで」
「ん、わかった」

玄関前にある数段の階段すら、彼は億劫そうに上った。介添えをするようにその背後についていたハコは、月下の名前を呼びながら肩に手を掛け、振り返らせた。

「なに…?…っ、ふ…」
(「―――!」)

茫然と立ちすくむ俺の眼前で、感応式であろう玄関灯が、密着するふたりを皓々と照らしている。
尖った顎を捉えたハコは、顔を傾けて彼の口脣に食いついていた。

…キスを、している。それも深いやつを。

まさに食べる、という表現が相応しい行為だった。親友の口のあたりがねっとりと、いやらしいリズムで動く。驚き、そしてすぐに抗おうとした月下は、くちゅくちゅと音がするほど続行されるディープキスに翻弄されていた。ハコの胸あたりに掛かった手は、最早添えられているだけで、突っ張ったり叩いたりといった抵抗の力を喪失しているようだった。
灯りに反射する双眸が、涙の膜を張っているのかきらきらと光っている。それが、段々と細くなっていき、寒気がするほどの艶を帯びていって、終いにはぎゅっと瞑られた。

「ふ…っはあ…、ん…、」
(「…クソ」)

甘やかな吐息が、否が応でも耳を震わせる。
あんな、声を出すのか。…彼は。

「・…、ふふ…」
「…っ、あっ…?」

絡み合った二つの舌は、名残惜しそうな音を立ててようやく離れる。と同時に、月下の腰が砕けた。眼鏡の友人は、悟っていたかのように薄い背中を抱きしめた。奴の膝が怪しく動く。途端に、脱力していた月下はびくりと跳ねた。

「ほら、ちょっと刺激しただけでこれだ…」
「…やめ、てくれ」と彼は、消え入りそうな声音で吐き出した。「…はこやなぎ、頼むから…」
「残念。でも、俺の身にもなってよね。…お試し期間が終わるまで、本番しないって言ったのはこっちだけどさ。結構辛いんだから。それに、変な我慢は身体に悪いよ?月下」
「大丈夫…、我慢なんて、…してない…」
「頑固者」

だが、流石にそれ以上はまずいと思ったのか、一度ぎゅうと抱きしめてから、ハコは相手を解放した。眼鏡の奥の切れ長の目、薄く微笑む口元――親友の横顔はとてつもない熱と、欲を内包している。らしからぬ自制は、むしろあいつの身体にこそ悪いんじゃなかろうかとすら思う。
「また明日」と言い、最後に首を伸ばして小さなキスをすると、ハコは車に乗り込んだ。エンジンが掛かり、滑らかにロールスが走り出していく。切り返しとかバックとかされたらひとたまりも無かったが、幸いにも鼻先を向けていた方向に走り去っていった。

「…っ、く…」

目醒めながらにして悪夢を見たような気分で、夜に消えたファントムを見送っていた俺は、か細く響いた苦鳴に意識を呼び戻された。
外扉の付近に立っていた筈の月下の、姿がない。それでも声だけは聞こえる。音はしなかったからぶっ倒れたわけじゃない。多分、うずくまっている。

「僕…、ぼ、くは…、…っ、」
(「……」)
「消えろ…っ、消えてくれ、…こんな…!」

鈍く、何かを叩く音。塀に隠れて見えないが、俺の脳裏には膝を折り、その脚を手で打つ月下の様子が鮮やかに浮かんだ。あの黒い双眸から止めどない涙を零しながら、自分自身を打擲するように、何度も、何度も。

「僕は――――!」

消えて欲しい対象は決して俺の親友ではないのだと、どうしてか分かってしまう。こういう時、彼は絶対に己を責めるのだ。まるでそれが義務だと言わんばかりにだ。
俺は標識の下で、じっと身を硬くしていた。月下とハコが付き合っている、という現場を、実際目の当たりにしてしまったショックは確かにあった。だが、それ以上に思考を支配していたのは、残り少ないヒントが――俺の考えを、そして行動を決定するためのパズルのピースが凄まじい勢いで埋まり始めていたからだ。黒くぽっかりとした空洞は、事実よりも感情で埋まりつつあった。ずっとあった違和感が、段々と形になっていく。

これは、怒りだ。

「……う、ま…!」
「…え、」

ぶすぶすと焼ける憤怒に身を任せかけたところで、衣擦れと砂利を踏みしだくような音が聞こえて正気に返った。見れば月下が壁に手をやり、足をタイルに擦りつけながら、ふらふらと家へ入っていくところだった。金属のドアが閉まり、鍵が旋回し、家の奥から息子を迎え入れたらしい女の声がした。じきに二階の端の部屋に、カーテンを透かして明かりが灯る。

俺は一連の光景を…こう言っちゃあ何だが、毒気をすっかり抜かれて見守っていた。もう少しで沸点を超えた感情が溢れかえるところだった。

正気を疑う話だけれど己の裡なる声は、月下を呼び彼を引き摺りだして、ハコと同じことするべきだと命じていた。
瞬間的に、狂暴な指向が頭の中に沸いて、俺は凶行を何の疑いも無く遂げようとしてた。
誰が誰のもんなのか、誤りを自分の力でもって消したかった。彼や、彼の中の某かが消える必要なんてない。

俺がどうにかするんだって。

それが、月下の吐いた単語ひとつで、嵐が消失した海みたいに、気持ちが凪いでしまったのだ。

(「…これ以上嫌われてどーすんだっての」)

シカトしてハブ(俺にその意図はなくても結果的にはなってる)にして、トドメに乱暴って最低通り越して人間外じゃねえか。まだハコになりたくないぞ、俺は。



『きゅうま』

なんであのタイミングで、…あんな声で。俺を呼ぶんだよ。

答えは勿論、無い。当の本人様は自室の電気を消してさっさと寝床に潜り込んでしまったようだからな。
…ちゃんと、眠ってくれればいいんだが。

要するに、真意を確かめる為には明日以降、面と向かって月下に問い糾すか―――俺が勝手に解釈するしかない、ってことだ。



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