考える貘U



放課後、言いつけられたクラス全員分のレポートを事務机に置くと、後をついて現れた剣菱が「ありがとう」と小さく頷いた。

「重かったでしょう。済みませんね」
「いえ…」

月下はともかく、他の生徒――例えば俺なんかは、こんな風に日直でもないと社会科準備室にはやって来ない。部屋の中は数週間前と何も変わらなかった。ハンガー掛けがあり、机があり、藁半紙の積み上がったローテーブルがある。奥に続く扉もそのままだ。開けた先には俺と彼が旅程を練った小部屋がある。白皙の顔をほんのりと上気させて、料理の話をしていた姿を思い出し、ふっと笑みが漏れた。

「――月下君とはうまくやっていますか?」
「…まあ、…ぼちぼち…」

狙い澄ましたようなタイミングで訊いてくるもんだから、厭になるぜまったく。
緩んでいた口の端を引き締め振り返ると、チャコール・ピンストライプのスーツを着た老教師が、存外に真面目な顔で立っていた。分厚いレンズの下の双眸は、いつもみたいな茫洋とした色には程遠く、思わず居住まいを正してしまう。

「…そこそこには」
「…そうですか。…いえ、それならいいんです。妙なことを訊きましたね」
「いえ、別に…」

「ご苦労様」と言いながら、白髪頭はゆっくりと窓際へ移動する。硝子窓を開くと、一気に冷たい風が入り込んできた。テーブルの上のプリントがばたばたと騒ぐ。文鎮と、テレビのリモコン(しかしテレビがないのだ、この部屋は)と、誰かの眼鏡ケースが雑然と乗せられていた理由が理解できた。

「…センセー」
「はい?」
「あいつ、…月下は、先生んとこ来ないんですか。昼とか、放課後、とか」
「最近はほとんど来なくなりましたねえ」と教師は言った。「…良い兆候です」

背中を向けているから剣菱の表情は分からない。落ち着いた声のどこにも、寂しさの欠片は無かった。飄然としていた。…流石、ジジイ。大したもんだ。
生徒と犬とは違うだろうけど、例えば、懐いていた子犬がある日突然姿を消したら、圧倒的多数の人間が寂しいとか、どうしたかと心配になるだろう。
月下の訪れがめっきり減ったことは、教師としては喜ぶべきことだと思う。けれど、俺から見て、剣菱と月下は祖父と孫のように親しかった。贔屓って一言じゃあ片付けられないような距離の近さがあった。だからこそ俺同様、あいつの変化には気付いている。

友人を手に入れた筈の臆病な少年は、未だに心身を消耗し続けている。唯一の助けであった教師のところにも訪れがない。
それはパズルのピースの、何欠片目かだ。

「久馬君と白柳君が居るから、大丈夫でしょう」

振り向いた皺深い顔が柔和に微笑んだ。以前は押しつけがましいだけだった言葉の裏に、剣菱の希望のようなものを感じてしまう。
…別に喜ばせたいわけじゃないが、機会は今しかねえと思った。

「俺、センセーに渡すもんがあんだけど」
「…おや、なんでしょう。ラブレターですか?」
「そういう冗談はセンセーが言っても全然面白くねえから突っ込んどく」
「はあ、申し訳ない」

尻ポケットに折り畳んでいた紙片を腰に押し付けて延ばし、突き出した。書くだけ書きはしたものの、どうしたもんかと迷った俺の心を反映してか、紙は随分よれよれになっていた。
担任は諾々と受け取り、そこに書かれたものが何であるかを悟り、――愕然とした面持ちになった。骨の浮き出た手が僅かに震えている。おお、ここまで驚いて貰うと俺も遣った甲斐があったってもんだぜ。

「君、これ」
「あー、監督には言ってあるんでヘーキです。辞めるわけじゃないんで」
「いや、しかし」
「センセーに渡してもいいんでしょ。特に条件とかあるわけでもなし、断られる理由もないと思うんですけど」
「だけどね、久馬君、…そもそも彼は」
「俺から話しときますんで、ダイジョウブです」
「はあ…、しかしどういうつもりですか。君」
「外堀を埋めてるとこなんですわ」と俺。「…そーゆーわけで、ヨロシク、センセ」

他にリアクションが思いつかない、といった態で頷いている剣菱に、にやりと笑いかける。ちょっとどころじゃない、かなりスカッとした。月下のことではいつもこの先生にやられっぱなしだったから、これぐらいのサプライズだってたまには赦されるだろうよ。



溜飲が下がったような気分で、部活をこなし、ここのところ不機嫌だった城崎を卯堂と一緒になってからかい――もとい、なぐさめてやった。ちょっと前にマルキンでたこ焼き食いたいとか言っていた気がしたので、それにも付き合った。俺の優しさを有難く受け取るがいい。奢りじゃないがな。
なんだかんだで心配だったのか、卯堂、橿原と輕子、安納、十和田に立待までがついてきた。…お前ら仲良過ぎだろ。

白柳にぼろくそ言われてから、キノはずっと落ち込んでいた。それでも意地だったのか、昼飯の時間はハコが居ても輪にちゃんと入ってきたし、話を振られれば返事をしていた。最低限の、イエスかノーだけ、だったけれど、月下をまるっと無視し続けている俺に比べればお前は大したもんだよ。

「にしたって、普通に気持ち悪いよな、白柳。ついに男と付き合うか」

脚が不均等にすり減った角椅子に腰掛け、声を顰めるようにして十和田が言う。
丸金商店――通称「マルキン」は河浦近辺の高校生が集まる粉物屋だ。帰宅時の買い食いは原則禁止、とされているが、見回してみてもうちの生徒がそこかしこに居る。自然、気まずい内容はこんな調子になってしまう。

「しかも月下とはなあ。…月下も、よくオーケーしたよな」と橿原。
「え、告ったのハコの方なん?」と卯堂。驚くのは結構だが、口の端から小豆が零れている。見かねた立待が「口!口!」と窘めた。
「…らしいよ。本人がそう言ってたし」と答えたのは輕子だった。それとなく隣で黙り込んでしまったキノの様子を確認しながら続ける。
「白柳から告白して、…なんか取りあえず保留、みたい」
「でも、あいつら最近一緒に登下校してるよな。俺、車で来るとき南門で見るぜ。ハコの家の車に月下が乗ってんの。あれ、月下ん家に寄って拾っていってんじゃね…ってキューマ?」
「いーや、何でもねえよ…続けてくれ」

鯛焼きの口の裂け目から、白玉と小豆で構成された内臓が飛び出て俺の手の甲を汚した。未確認情報につい力が入っちまったぜ…。

「月下ってどこだっけ、家」
「艫町」
「ハコって船倉だろ?わざわざ迎えに行ってんだ。うわ、ラブラブ…どこが保留やねん…」

「つか、そもそも男同士ってフツーにキモイだろ」

それまで口を閉ざしていた城崎が、ぼそりと言った。太い眉毛が不快げに寄せられている。思わず全員が黙って奴の顔を見た。周囲の喧噪が急速にボリュームダウンして感じられる。

「要するにホモだぜ?そんなんが身内に居るってキモくねえ?」
「…月下はもしかしたら、断りそびれてるだけかもしんねえよな」口早に安納が言う。「だって、ほら、あんな性格じゃねーの」
「でもつるんでるんだろ、拒否しねえなら同類だろ」
「……」
「俺、正直近寄りたくもねー。ホモ菌伝染る。早く校研終われって感じ」

幾ら男子校で、そういった事例が無いわけじゃないにせよ―――キノの反応が、大勢を占めるだろうと思う。
普通科や他校の連中が信じ込んでいる程、うちの学科は特殊じゃない。とんでもない金持ちとか、俗に言う上流階級出身の奴等が多いのは事実だ。告白された、あいつらは出来てるらしい、みたいな噂はとみに聞く、しかし、同性愛が奨励されているわけでも、大っぴらに認められているわけでもない。

「……――じゃあ、俺とも口、きけないな」
「は?」

今度は視線が台詞の主――輕子に移る。
この糞寒い日に氷をたっぷり浮かべた烏龍茶を啜っていた彼は、吊り目を細めて、言った。

「告られた。で、今は保留中」
「……!」

俺を除く、一同、絶句だ。
白柳の親友なんてもんをやってると、そう簡単には驚かなくなっちまうのは哀しい性である。凍り付いている友人たちを代表して、仕方なしに訊いた。

「相手、誰よ」
「…埜村」

うお、そうきたか。

「ウホッ!マジかよ!あのガチムチかー!」
「なんかそういう風に言われっと、途端にホモ男にしか見えんようになってくるな…」
「てか埜村も中等部出身やろ?そん時から好きだったとかそーゆー話?!一途だなー!」
「十和田、落ち着け」
「で、何で保留なんだ?」

鯛焼きの頭にかぶりつきながら問うと、輕子は瞑目するように目蓋を閉ざした。

「…速攻断ったら、その場で押し倒してきそうな雰囲気だったから」
「うっわー、やるじゃん埜村」
「でもマツリ(輕子の名だ)に蹴られて終わりじゃね?」
「いや体格差でちょっとキツいだろ」

やんやと盛り上がる外野を余所に、キノは俯いた。耳の先の尖ったところが、真っ赤になっている。輕子も輕子で、自分からけしかけた癖に親友の旋毛を無言で見つめているだけだ。話を振ったんなら収拾しろよ、テメェも。

しょーがねえなー。

「…俺とも口きかねー、とか、言うなよキノ」

真打ち登場、とばかりに投下した爆弾発言で、友人たちはさらに色めき立った。



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