疼き



(久馬)


「ありがとうございましたっ」
「あざーしたっ!」

朝練終了の挨拶が終わり、円陣はぱっと散開した。何となく余韻を殺したくなくて、腕のストレッチをしながら歩き出す。着替えるの面倒臭え。とは言え、連日ホームルームにジャージ姿で突入すると、剣菱に「おや久馬君、一限は体育ですか?」とか揶揄されるんだよな。あの髭ジジイ。余計に面倒だ。
つかシャワー浴びたいよシャワー。そうしたら、この痛む左足の様子も見れるってもんだ。
捻りも挫きもしてねえし、念のため接骨院にも行って診て貰ったけど、異常がないらしい俺の足首。少し前からズキズキと疼痛が止まらないのだ。陸上やってるだけに足には特に用心をしてるんだけどなあ。
走れなくなったら真剣にシャレにならん。最悪、大学病院とか行くようなのか。

そんなことを考えながらトラックを横断していたら、後ろから足音が近付いて来た。続いて背中が軽くはたかれる。

「久馬」
「キノ、…お疲れ」
「お疲れ」と友人は返し、少しの後思い切ったように、続けた。
「……輕子、喋ったってな。聞いた。…月下と白柳のこと」
「あー」

練習中、やけにこちらをちらちら見やがると思っていたら、城崎は話かける機会を伺っていたみたいだ。
おざなりな返事をすると、目鼻立ちのくっきりした顔立ちがぐしゃりと歪んだ。

「ったくソッチの事情に俺らまで巻き込むなって感じ、しねぇ?」
「…最終的に月下を班に入れていーつったの、俺だぜ」
「えっそーなの」
「そうなの」

攻め手を失って口ごもったこいつには悪いが、順に追っていけば、それが事実だ。月下を加えたことは、別に後悔してねえし。

「…輕子さぁ、反対した?」

それでも納得しきれないらしく、言い募って来たので、首を横に振った。

「いいや」
「…あいつ。言えって言ったのに…」

聞こえてますよ、城崎君。しかも舌打ちまでしてやがる。こいつの白柳嫌いも筋金入りだな。

「アイツはそーゆうこと、言うタイプじゃねえだろ」

月下とハコが付き合ってるっつうことはさておいて――、嫌ならこっちのグループにどうぞ、ぐらいのノリだったし、奴は、俺がそんな理由でグループを解消しないってきっと分かっていた。その上で御伺いをたててきたのは、親友への義理なんだろう。いいダチじゃねえの城崎よ。

「まー、輕子に言われたところで今更変えるつもりはねーな」
「だって、」
「大体、お前は何でそんなにハコが嫌いなんだよ」

どうでもいいのだが、取り敢えず聞いてやる、と、城崎はたたっと隣に駆けてきた。目が凄ぇキラキラしてる…。まずいスイッチ入ったか?

「だってキモいじゃん!」
「……」

まあ、今の発言については否定はしない。

「それにキューマのもん盗っても平気なツラしてるし、謝りもしねぇし、」

アイツが謝ったら、衝撃のあまり俺が泣くかもしらん。

「いっつもヘラヘラ笑ってて何考えてっか訳分かんねーし、その癖女にはモテるし、」
「大分僻みが入ってきたな…」
「あ?!ナニ?」
「いやなんでもねぇよ、続けてくれたまえよ」
「大体さぁ、久馬だって甘過ぎるんだよ白柳に。フツー、そこは絶交するとこだろ!」
「絶交って…お前は何歳だよ…」
「十七!」

マジレスか。つか今の時点では俺のが年下ってとこが微妙だ。鼻息荒くまくし立ててる猿顔を見てると同学年かも疑わしくなってきた。
今度から『チンパ』とかにしようか、渾名。チンパンジーの始め三文字で、チンパ。流石俺。ナイスネーミング。

「キューマはさ、自分のもん横取りされてムカつかねぇの!」
「月下は俺のじゃねえし!!」
「…はァ?」


―――…しまった。


「今、月下の話なんてしてねーけど…」
「あー、いやいや何でもないんだよチンパ」
「ちんぱ?」
「いやキノだ。キノキノ。そうだ、ハコにまつわる愉快な話をしてやるよ」
「…別に聞きたくねーけど…」
「まあ、遠慮するなや」

うん、よく分かってる。ムカつく奴の話を傾聴したいなんて余程の物好きしかいないし、城崎にそういう趣味がないってことくらいな!
だが俺にしてみりゃさっきの失言を速攻でテメェの記憶野から消し去りたいんだよ!!

「あいつな、人のもん盗るのは平気なんだけど、自分のもん盗られるのスッゲー嫌がるんだぜ!」
「…ど、どういうことだよ…」

突然上がった俺のテンションに、半ばビビり気味の城崎。
…ふ、勝ったな。

「いやさぁ、前ウチでチューペット出したわけ。青リンゴと苺味。したらアイツ苺がいいって言ってさぁ、俺も別に構わねーって返事してたんだけど、冷蔵庫に取りに行く時すっかり忘れてて、俺苺味食べながら部屋戻ってさー」

あの時のハコのキレようとかマジ凄かったもんな。「そんなに苺が好きなら苺農家になれば今すぐ」とか言ってたよアイツ。しかも真顔。

「それって…元々久馬んちのやつなんだろ」
「そーだけど」

無事に城崎の意識も逸れたみたいだし、このペースだとシャワー室に行ってしっかり洗えるかも、なんて考えていた俺は、相当軽く返していた筈だ。
その間、城崎の堪忍袋の緒は音を立てて切れたらしい。

「ハァー?!マジアイツ死ねよ!本当死ね!意味不明だし!」
「うお?!」

歯軋りをした城崎は、俺のジャージの袖を勢いよく引っ張った!
と同時に足首の痛みが加速度的に増した。なんだ、ジャージと連動でもしてんのか、俺の足は。

「伸びる伸びる!」
「おかしいだろ!そんで久馬の女、横取りして?ポイ捨て?!…自分は盗られんのムカつくとかッ?」
「伸びるってんだろ、つか痛たたたたた!」


「…そうだよムカつくよ?――…それが何か?」


淡々とした声が頭上から降ってくる。城崎と縺れ合ったまま、声のした――土手の方を見上げた。
校舎に向かう並木道には、冷然と微笑む白柳壱成と、青白い顔の月下が、立っていた。



「……おー」

城崎がぶら下がってない方の手を上げてみせると、ハコは黙って手をひらひら振った。

「おはよ。…城崎も」
「…」

キノは先程までの元気が嘘のように黙りこんでしまった。横顔をちらりと見たら、射殺しそうな視線でハコを睨み付けている。やれやれだ。

「珍しいじゃねえか、…歩きか?」
「うん、月下に付き合ってさ。ね、サカシタ」

話を振られた彼はひくん、と揺れた後で小さく頷いた。俺はジャケット越しでもそうと分かる、ほっそりとした手の先を見た。前に使っていたエナメルのスポーツバッグじゃない。平たい革鞄を提げている。それ以外には、何も携えてはいなかった。…自然、顰めっ面になった。

こいつ、また飯持ってきてねえ。

「そっちは朝練?」
「見りゃ分かんだろ」と城崎。とんでもなくぶっきらぼうな声だ。「…つか、テメェと話すことなんて何もねーし」
「そう?」

ハコは全く気にした風もなく笑っている。あからさまな挑発に、しかし、キノは乗っちまうんだよなあ。唾をぺっと校庭に吐き捨てると、

「なんでキューマがテメェとダチなのか、普通にわかんねーよ!」

と吠えた。
ここまでは、ままある事だったのだが。

「…それは城崎が口を出す話じゃねーだろ」
(「…おーい…」)

――何と、ハコの奴がまともに相手をしちまったのだ。

「あァ?!」
「お前が付き合っちゃ駄目って言ったら久馬は俺と縁切るとか?そーゆー話?くっだらねー。ヒトのこと気にしてる暇あったら、学年順位も少し上あげれば?…特待生クン」
「てっめ…!」
「城崎、やめろ。…壱成も。それこそテメェが口出すこっちゃねーよ」
「そりゃま、そうですねえ」と肩を竦めて見せるハコ。

キノは拳を握り締めてぶるぶると瘧でも起こしたみたいに震えていたが、俺が乱暴に肩を叩くと、ぐっと俯き、必死に利き腕をもう片方の手で押さえつけた。心情的なものだったんだと思う。

「キノ、シャワー浴びに行くだろ。先行って一年追い出しといてくれよ。…頼むわ」

奴は返事をしなかった。が、黙ってくるりと方向転換すると、部室棟のある方へ駆けていった。
汗が乾いて身体全体が凍えるようだった。……それ以上に、思考は冷めていた。

ものの数歩で緩い傾斜を駆け上がり、二人の同級生の前へと立つ。月下は今の遣り取りが聞こえていなかったみたいに、ぼんやりと虚ろな眼差しをしていた。彼には珍しく、いつもなら俺の鎖骨の辺りをうろうろと彷徨っていた視線は、地面へ落ちていた。

「ハコ。…言い過ぎだ。らしくねーじゃねえの」
「つい、ね」と友人は笑った。「ちょっと浮かれてたみたい。藪から棒にで、カチンってきちゃってさぁ。…陰口叩いてる内はいいんだけどさ、面と向かって言われるとむかつくんだよね」

普通そこは逆だと思うんだが。ま、こいつにフツーなんて修飾が似合わないのは周知の事実だがな。

「いや、そんな褒められると困る」
「全く褒めてねえ、な、……」

照れ笑いとかされても余計に困るから止めろっての、つうか気持ち悪いし。
親友の気色悪さに凍り付き、脳味噌も視神経もハコ以外のもの求めて泳ぎ、そしてまた、月下に目を止めた。

彼もまた、微笑んでいた。

「……」

顔色は悪く、ひたすらに黒い――今更気付いたが――大きな瞳は、不安定に揺らいでいた。痩せた首の筋ははっきりと浮き出て、痛々しいくらいだった。
それでも、俺とハコを見て月下は笑っていた。

『…久馬と白柳は大丈夫』

いつかの声が閉ざされた口唇から聞こえてくるようだった。…こいつ、もしかして俺らのこと心配してた、のか?

(「…そんな余裕ねえだろ…」)

月下と会話をもたなくなって、そこまで経ったわけじゃない。つい数日前までは隣で見れたのに、どうしてか酷く懐かしい表情に思えた。
毎朝、グラウンドの横を通るとき、彼はこういう風に俺を眺めていた気がする。教室の、離れた席からも。
ほんの少しの羨望と、それを上回る、シンプルな感嘆が入り交じった表情だった。


名前を、呼ぼうと思った。
…でも、叶わなかった。


「白柳」
「うん?」
「僕、先に行ってる」
「あ、うん。俺もすぐ行くよ?」
「分かった。…じゃあ、また…教室で」

馴染みのある、水面に映る影を見るような視線が一瞬、俺の表面を撫でた。皮膚の下で頬の筋肉が微かに痙攣する。肺の容量が唐突に少なくなる。

なんだ、これ。
…なんだ。

立ち尽くす俺と見送る白柳を置いて、月下は、左足を引きずるようにして立ち去っていった。





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