久馬 忍



(月下)

「…いってきます」


母の声を背に受けて、僕は自宅を後にした。
未だに母は「なんで自転車で行かないの?」と折りにつけ聞いてくる。そのたびに僕は、曖昧に笑って誤魔化す。

徒歩で行けば40分の行程も自転車なら15分そこらだ。母が不思議がるのも当然だと思う、が、僕はどんなに寒い日も、どしゃ降りの雨の日だって、歩いて学校に行かなければ。

自転車を使う気にならないのは、赤い縄を轢いてしまうのが怖いからだ。
物質として存在していなくても、鮮やかな色合いが目に飛び込むとつい身がすくんでしまう。タイヤで轢くのだってあまり気分は良くない。歩きならまだ避けやすいから、早起きをしてでも徒歩通学を選んでいる。


(「…あ、…また…」)


今朝も前を先を行く生徒の足元をうっかり見てしまい、慌ててかぶりを振った。普通科の生徒であろう、ほっそりした脚持つセーラー服から真っ赤な一条が流れている。思わずその繋ぐ先を目で追い掛け、即座に自分を戒めた。視線を前に固定して、段々と近づいてくる校舎だけ見つめた。

(「誰が何と繋がろうが、もういいじゃないか。僕には見ていることしかできない」)

縄の這う地面をなるべく見たくなくて、いつからか僕には前だけに頭を固定して歩く癖がついた。
俯いて仕舞えば視界から殺すことが出来るものって結構色々ある。
口煩く進路について聞いてくる親の顔、話の長い校長先生の顔、過去の後悔を無遠慮に暴き出す友人の顔、

――気になって仕方がない、同級生の姿。


それでも僕には面を伏せることは許されない。俯くなら目蓋までしっかり閉じないと、見てしまうのだ。赤い縄を。僕と彼の足首を冗談のように繋ぐ、馬鹿げた運命の糸を。




まだ、始業には随分時間がある頃合いだ。
それでも教室に入ると、既に数人のクラスメイトが登校してきていた。挨拶もそこそこに、必要な荷物だけを取って、鞄をロッカーへ突っ込んだ。席へ着く。机の上に投げ出した腕へと頭を潜り込ませる。自意識過剰で無ければ、級友の視線が肩のあたりに突き立っている。

その事実を頭の片隅に押し遣って、僕は引き寄せた腕の隙間から、ある生徒の座席を盗み見た。
黒いジャケットと、バーバリーのマフラーが引っ掛けてある。彼は大抵、朝練で早くから登校しているのだ。



久馬 忍。
僕の学年でも結構な有名人。陸上部、短距離走種目のエースにしてうちのクラスのリーダー格。
背は高いし、スタイルも良いし、顔だって男の自分から見ても整っている。意志の強そうな眉の下では、いつだって自信に満ち溢れた黒い双眸があった。短く切った上で、軽く浮かせるようにセットされた茶髪は毎朝念入りに整えられていて、僕みたいな黒くて真っ直ぐなだけの髪とは全然違う。
彼の元には、月に数回は普通科の女の子たちが告白ムードを漂わせてやってくる。うちの学校は学科間の格差が割とはっきりしていて、正直、校舎間の往き来もしにくいところがある。

訪れにくい雰囲気だろうにそれでも、「三年で一番の美人が来た」だの、「いや、この間はお嬢様学校で有名な青絅女館の子と歩いていた」だの、話題には事欠かない。

久馬のそうした噂を耳にするたび、僕の心を占めるのは暗憺忸怩たる思いと、爪の先ほどの――優越感だ。

(「みんな、違うのに。…馬鹿げてる」)


彼と繋がっているのは、恋情の先に在るのは、普通科の美人でも、青女のお嬢様でもない。



僕なんだ。



思考が答えに辿り着いた瞬間、今まで考えていたすべてのことが真っ黒に塗り潰される。吐きたい。気持ち悪い。僕はどうかしている。自分で自分を殺してやりたいくらいの、猛烈な嫌悪の感情でいっぱいになる。

僕は男で、彼も男だ。そもそも、久馬は僕のことなんて歯牙にも掛けていない。(大体、相手は「あの」久馬だぞ?)
毎朝顔を合わせた時だけ挨拶をするような関係だ。進展する仲の有り様はどこにもない。何故、彼と僕、それぞれの足首に赤い縄が生まれたのか、本当に訳が分からないのだ。


「月下、おっはよー」
「…っ、お、おはよう…」
「何?気分でも悪いんか?…月下、いつも朝グダグダだよな」
「ああ…うん、弱くて。…悪い」

それ以上の会話を打ち切るような返事をしたら、相手はひらひらと手を振って自分の席へ移動して行った。
白柳。久馬の親友。彼も結構な人気者だ。愛想が良く、とっつき易い印象の男だ。彼も僕とは違う世界の人間に見える。
惜しみ無く振り撒かれる笑顔と、人好きのする態度に、二、三余計なお喋りをしてしまいそうになる。

(「…だめだ」)

僕は再び腕の中に頭を埋めた。
彼は久馬に連なる人間だ。出来うる限り避けなくてはいけない。

久馬と僕とが赤い縄で繋がれている理由は不明だ。
恋愛は事故みたいなもの、と聞いたことがある。その理屈で言えば、縄でくびられたことも事故なのかもしれない。もしくは、罰、なのか。

正しいちからの使い方を考えることもせず、増上慢に自らの興味や優越を満たすためだけに能力を振るった、僕への。


(「…多分、きっとそうだ」)


ならば僕がすべきことはひとつだ。
巻き込まれてしまった久馬が、嫌な思いをする前にすべての関係を絶たなくては。空気のように存在感を無くすか、徹底的に嫌われるか。とにかく彼にとっては居ない人間のように振る舞わなければ。


(「そうしたら、いつかは縄も消えるかもしれない」)


体育の授業で見た、よく鍛えられた手足が描くきれいなフォームが脳裏に浮かんだ。サバンナの獣のように風を切り裂いて走る姿は、ほんとうにすごかった。

憧れに似た気持ちも、タイムを聞いて誇らかに笑う表情も、塗り潰した黒の、暗渠へと放り込んだ。生暖かくなった机の天板へ鼻を押し付け、始業をひたすらに待ちわびた。






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