The Brand



(月下)


「…どうしたの?」

取り込んだ空気が乾いた喉に痛みをもたらした。僕が発した声は「あっ」とか「ひっ」とか、そんな感じで、白柳が怪訝な面持ちになったとしても、当然の仕儀だった。
でも、僕としても、―――…むべのないことだったのだ。

均整のとれた、まるで、モデルみたいな体躯、それに釣り合った長さの脚には、確かに縄がついていた。赤くもなく、長くもない縄が。
縄は、白柳の左足に刺青のように纏わり付いていた。ずず黒く、コールタールに似た色合いをしている。二度ほど彼の足首を回った後、脇で硬く結ばれ、紐が伸びる筈の部分は断ち切られている。鈍い刃で無理に切ったみたいだ。痕はうじゃじゃけ、糸はほつれて、火や熱に押し付けたら、もしかしたらこうなるかもしれない。

黒い、黒い糸。

「――――……」

(「何だ、これ…?!」)

二の句が継げなくなった僕は、馬鹿みたいに口を開いたまま、優雅に組まれた足先を凝視していた。こんな状態の縄を見たのは初めてのことだったのだ。今までのやつは、多くの赤と、少し特殊な色のものがひとつ。でも、全てはどこかの誰かに繋がっていた。白柳のはただ、彼自身に巻き付いているだけだ。無惨な痕跡だけを残して。

「サカシタ?」
「…っ、あ、わ、悪い…」
「どうしたの?」と彼はもう一度繰り返した。糸目をさらに細めて、人の良い笑みすら浮かべてみせた。
「…ちゃんと、見えた?靴下とか脱いだ方がいいわけ?」
「…いや、…うん…」

確かにちゃんと見えた。見えた、けれど、…そのままを口にしても良いものだろうか。僕の話を信じるにしろ、信じないにしろ、「君の足には黒くて、焼き焦がしたみたいな縄がついてるよ」と言われて気分の良い人間はいないと思う。
そんなだったら、無いほうが全然マシだ。元よりまともな代物じゃないけど、白柳のこれは尋常のものとは思えない。縄が示す意味は一体何だ?僕には判断すべき例があまりに少なすぎる。白柳に信じて欲しい気持ちはそれなりに――いや、かなり、あるけれども、自分の欲求を先行させて人を傷付けるのは、もう充分なんじゃなかろうか。

僕はぎゅっと目を瞑った。暗い瞼の中で心を鎮めた。
次に目を開いた時も、白柳は同じ表情で回答を待っていた。

「…ついてた」
「…そう」
「……」
「……どんな?」
「えっ…、その…普通のやつ。赤いのが…」
「それは誰と繋がってるの?」
「と、扉の外に出ちゃってて、わかんないんだ。…ごめん」

喋りながらそろそろと距離を取ろうとしていた僕の、脚が、がっと掴まれる。さっきまで同級生の膝に乗っかっていた一対のそれは、彼にほど近いところで、屈折したままベンチの上にあった。
痩せた僕の太股は相当掴みやすかった筈だ。白柳は難無くこちらの動きを止めてしまったから。ずい、と彼が寄ってくる――いいや、のし掛かってくる!


「ウソツキ」
「……っひ…!」
「駄目だよ、月下。嘘は。俺そうゆうの、すぐに分かるんだから」
「…そ、じゃ…な…」
「中学時代、いや、もっと前からか?ずーっと見てきたんでしょ、いろんな奴の『赤い糸』。だったらもっと慣れた反応するよなぁ?だって、それが唯一の、お前の自信だったわけだろ?」
「…ぐ、…っ」
「なのに驚くってさ、それ余程だって話じゃん」

一瞬、脚が軽くなったと思ったら、今度はさらなる重みが掛かる。ベンチに僕を長座させて、白柳はそこに自らの左足の膝頭でもって、杭を打った。

痛い―――…逃げなきゃ。

反射的に肘を足みたく動かして後退した、が、黒い腕がするりと伸びてきて、顔が正面で固定される。余所見は赦さない、と言わんばかりにしっかりと。

「俺さぁ、自分のもん盗られんのと、嘘つかれるの、一番嫌いなんだよねえ」

眼鏡を外した素顔は、つくりがいいだけに凄味を増していた。瓜実型の輪郭の上に、ぎらぎらと憤怒に燃える双眸がある。目があった瞬間、瞬きまでも禁じられてしまった気分になる。
彼の口脣が頬を裂くように吊り上がっていく、その様を硬直して見つめるしか術がない。

気が付けば、僕は小さく震えていた。身体の芯から来ているものだと分かる。表面をどうにかしたところで抑えられるものじゃない。恐怖は物理的な暖かさでは取り除けないからだ。

「だから、サカシタ、二度はないよ。いいね?」
「…ぅ、あ…」

慄然としながらも、僕は頷いた。自分と違い、白柳は本当のことを口にしているのだと悟ったからだ。がくがくと頷く僕に、彼は満足そうににっこりと笑う。これは本物だ。

「いいこ」
「……」
「はい、じゃあ正しい答えを言いましょう」

言われずとも、二度も嘘をつくような度胸は無かった。
二人分の体重を支え、精神同様、肘が痺れたようになっている。どいて欲しいけど…何を見たか告白するまでは、降りてくれるとは思えなかった。頬を押さえつける手も僕を固定し続けている。まるで首枷だった。

「…黒くて…」
「うん?」
「先が、切れて…焼けたみたいな、縄がついてる。君の、足首――…左の、そこに二周して、端で結んであるんだ。先は何処にも繋がってない」
「……」
「…さっきのは、君の言うとおり、嘘だ。君が、厭がるんじゃないかと思って…ごめん。でも、僕の言うことを信じなければいい…、そう、そうだよ、こんな話、信じられないだろ?」

必死に言い繕いながら、自分の言葉が段々と悪くない提案に思えてきた。根本から否定してくれれば、何ということもない。少し頭がおかしいクラスメイトの、戯言だと思ってくれればそれでいい。


「…ふ、」
「……?」


僕を押し倒した状態で停止していた白柳は、ふいに顔を覆い隠した。俯いて、両の掌で蓋をしている。必然的に全体重がこちらにかかってきたので、僕は呻いた。
それにようやく気付いたように、彼は「ごめんごめん」と言った。朗らかな声はあくまでいつも通りの白柳だった。
但し、謝った癖に、彼が次に取った行動と言えば、さらに上体を倒してくるだなんて、無茶苦茶なものだったけれども。

「ど…どうし、た…はこやなぎ…」
「んー…」
「はこ…っ!」

みなまで口にすることは出来なかった。

すらりと徹った鼻梁がどんどん近付いてきて、あ、と思ったときには、やや傾いた白柳の顔で僕の視界いっぱいが占められていたからだ。

「…っふ、…う…ん…っ!」

接したところから、半端に開いていた口脣から、ぬめった温かなものが滑り込んでくる。驚きに目を瞠る(閉じるタイミングは完全に逸していた)と、切れ長の瞳を歪めて、白柳は嗤った。眼球の動きに合わせて、彼の長い睫毛が頬を掠めていく。でも、くすぐったいと思ういとまは無かった。

「ん…はぁ…っ、うっ…ふ…」
「…はは、」

指先を自在に動かすがごとくに、白柳の舌は僕の口腔を舐め尽くす。上顎の裏をなぞり、歯茎を辿り、舌の上を撫ぜた。くちゅくちゅと耳を塞ぎたくなる水音に苛まれる。呼吸も当たり前に怪しい。息継ぎをすると、見計らったように彼が食いついてくるからだ。唾液を含まされ、息苦しさに顔を動かそうとしたところで、後頭部をぐっと引き下ろされる。

「…っく…ぅ!」

仕方なしに――仕方ないとか考える前に、もう嚥下するしかなかった。そのことに衝撃を受けている間もなく、別の刺激が這い上がってくる。空いた片手で白柳は僕の胸を擦った。膨らみすらないそこの、継ぎ目から頂きに至るところを掌で何遍も、何遍も。時折、親指の腹で胸の中心を尖らすように、…欲望の萌芽を秘やかに育てるような手つきで。

「…ゃ…!」

裏返った甲高い声に、自分自身、怖気が奔る。この感覚は前にもあった。オレンジ色の電球の下、夜、布団の中で。久馬のことを考えていたときと、同じだ。

(違う、同じじゃない)
(もっと単純で、強制的で、―――何より現実だ)

白柳の体重を支えつつ、片手で彼を押しのけるなんて芸当、僕には出来なかった。圧倒的に非力だったし、何よりも実行に移した刹那、あっさりと白柳の手に絡め取られてしまったからだ。つっかえ棒のように手を突き出すと、彼はまたしても指を交互に組み合わせて、僕を自分へと引き寄せた。寸前まで髪を掴まれていたので、がくり、と喉を晒したまま倒れかかると、心底愛おしそうに抱きしめられた。

「…はははは、…ふふ、あははははははは!」
「……?」

呼吸困難、度重なるショックと疲労で、息も絶え絶えだ。
何故、白柳は僕にキスをした?何がおかしくて笑っているんだ?
壊れた人形のように、彼の腕に閉じ込められていると、むしろ己の方がどうにかなってしまったんじゃないかとすら思えてくる。煩い動悸は二人の胸板の間で潰れている。僕は口脣を、自由な手の甲で拭った。べたべたに濡れている。幾度擦っても消えようもない気がしてくる。理由もない罪悪感が、先ほどの恐怖に似た足音と早さでやってくる。

「君を信じるよ、月下真赭」
「―――…」

え?
彼は、いま、なにをいったんだ?

「あはは…おもしろいな…。こんなにおもしろいの、久しぶりだ」

何処か子どもっぽい手つきで、ぐしゃぐしゃと目元を擦る。そうして白柳は満面の笑みを零した。彼の笑顔には幾つか種類があったけれど、これは、本当に楽しくて嬉しくて笑っているのだと―――確信できるくらい、晴れやかな笑顔だった。

「あと、ついでに―――ねえ、…俺のオンナになってくれない?」

この一言をとどめに、思考回路は完全に焼き切れてしまった。ぽかんと口を開いたまま停止した僕を抱いて、白柳はしばらく愉快そうに笑い声を上げていた。軽やかな声が緑の庭へ吸い込まれてくのを、遠い世界の出来事のように聞いていた。

その日の午後の授業とホームルームは勿論欠席、僕は彼に引き摺られるようにして学校をエスケープしたのだった。



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