SpellBaind



(月下)


新蒔たちを逃がした後で、僕は直ぐ様久馬の席に向かった。とにかく詫びと、それから何らかの誤解があるなら解かねばならないと思った。揉み合っている時、彼を詰ってしまったことも、ちゃんと話し合いたかった。そういう、双方向の関わりを望むことは、今までの僕にとってはタブーだったのに、最低のラインすら抜け落ちている自分に、気付きもしなかった。
少し前の僕なら「これを機会に距離を置けばいい」と思ったろうに。

―――考えが及ばないくらい当たり前に、僕は久馬と友達で居たかったんだ。

「久馬…」
「……」
「あの、久馬?」
「…」

久馬は鞄から携帯電話を取り出し、ジャックから伸びるイヤフォンを両耳へ突っ込んだ。ボタンを押し、腕で作った枕に頭を埋めてしまう。表情は分からない。直線に近いがそれとは異なる、耳から顎までの絶妙なラインしか、見えない。

「久馬はお前と話したくないってさ」
「…え」

久馬の隣の席、安納――久馬グループの一員だ――が椅子を引きながら、事も無げに言った。輕子と同じく、グループの面子では割合と話しかけてくれた方だった。彼は今、余所余所しい顔をしていた。

「分かったろ?分かったら、なあ、席戻れよ」
「アンノウ」
「あ…、おお?」
「うっさい」
「わ、悪ぃ…」

そうして安納は僕を見上げた。顎で「あっち行け」と示される。用があるのは彼じゃない、久馬だ。でも、久馬の意図は充分過ぎるほど理解出来た。安納の言うように彼は「消えろ」と言っているのだ。

「…――ごめん」

結局、何に対する謝罪なのかも不明な、意味のない言葉を口にしてその場を立ち去った。
翌日から何が起きるのか、大抵は予想がついた。


次の日以降、終業になっても、久馬は隣には来なかった。自分の席で弁当の包みを開いたり、仲間たちと学食に行ったり。これがグループの習慣として定着するのは火を見るより明らかだった。
唯一、白柳だけは僕を呼びに来てくれたけど、彼の誘いに応えることはしなかった。白柳の立場がこれ以上まずくなるのは厭だったし、何よりあのひとの近くに行って、自分が平静でいられるとは思わない。

『無視すんのは好きじゃねーし、』

そう言っていた久馬の横顔はありありと思い出せる。確かに、心底からの言葉だった。失いたくない関係のためには、多少の拘りなんて捨てる、と笑っていた。白柳とはそうして今までやって来れたのだと。――つまり、それ以外は久馬にとっては容赦なく切り捨てる対象であるということ。

もう間近であんな笑顔を見ることはないだろう。
僕はまた、ひとりに戻ったのだ。



こうなってしまうと、彼と同じ教室で過ごすことすら拷問でしかない(これも端から分かっていたことだ)。授業と授業の間に挟まる十分程度の休み、それから長い昼休み、僕はひたすら外へ出た。図書館、中庭。先生の所に行くのはあまりに虫が良すぎると思って止め、同じ理由で普通科にも行かなかった。そうしたら後は例のトイレだけだ。我ながら呆れるほどに根暗だ。
流石に共有棟までは行ってられないので、階をひとつ上がった、一年生の廊下に向かい、そこの手洗いを使う。学年がばれると厭なので、手前でタイを外していく周到さで。
一番奥の個室を開き、壁に寄り掛かってだらだらと泣く。声は出ない。涙腺が壊れるままにするだけ。

「悲しい」のとは、違うと思った。行為とは矛盾していたけれど、いつかは来ることだと分かっていた。ならば何の涙だろう?
多分、単一の理由から来るものではないのだ。自分の中に渦巻いている感情が、隙間がないほどに充ちていて、行き場を失い、こうして排泄されているのだ。ついでに久馬に対する想いも流れてしまえばいいのだが、そんなに楽にはいかない。
僕は相変わらず彼が好き、または好きだと思い込んでいる状態が続いていた。

朝も、グラウンドの前は通らずに、大回りをして南門から出入りすることにした。裕福な生徒のために、主に車での送迎用に解放されている門だ。
クラスの連中が侮蔑と好奇心が混ざった目でこちらを見ていたが、久馬以外の人間がどれほど僕を嘲ったところで、何も響きはしない。ぞっとするほどに白い顔を晒し、黙々と歩くだけだ。後は日々の学課をこなして、帰る。いつか感覚が麻痺するまで―――または、久馬について考えなくても済むようになるまで、時間を潰せばいい。すべては、予想通りの展開になっている。それを喜ぶことは勿論、呪うこともできない。
未練が具現化したような赤い縄をぶら下げて、僕はそんな風に過ごしていた。




久馬、およびクラスの大半に空気みたいに扱われるようになって、そうもたたないある日のことだ。
僕はいつもの通り、教室を抜け出し階上のトイレへと向かっていた。段を上がりながら、首元のタイを引き抜く。折り畳んでポケットにしまい、1年生のフロアに着いた。
辺りを歩いているのは、どれも赤いタイを締めた下級生たちだ。ぱっと見、皆楽しそうに過ごしている。こんなちからが無ければ、僕も彼らのようになれただろうか――そう思って、仮定の馬鹿馬鹿しさに考えるのを止めた。

久馬と出逢って、彼と言葉を交わしてから、あの気高く、意志の強い同級生は少なからず僕に影響を及ぼしていた。久馬は「もしも」を嫌った。
益のない仮定は、頭の体操にはなるかもしれないが、現状を良くすることにはならない、というのが彼の考え方だった。
僕は久馬そのものにはなれないけれど、彼を鏡に自分の弱いところを戒めることが出来れば、と思う。あのひとの近くに少しの間だけでも在って、得たものは、甘い罰、ひたすらの辛苦だけでは無かった筈だ。

賑やかしい廊下の端に寄って、壁に片手を、もう片方の手を口元に当てながらゆっくりと進む。水族館の水槽はこんな具合かもしれない。視界が定まらず、音はすべてぼやけて聞こえる。

(「…頭が眩々する。」)

気持ちだけはそう有れかしと思っているのだけれど、どうにも身体の方はついていかない。
高校に上がってしばらくして、糸のちからに悩んでいた頃のことを思い出す。食べ物を胃に留めておられなくて、吐いたこともあった。今は食べる気すら起こらず、一日一食、よくて二食の日が続いている。ままならないものだ。情けなくて笑えてくる。


「…は、…っ、…はは…」

無人のトイレに響く僕の声はか細く、掠れている。よく磨かれた鏡や、タイルに、暈のように像をだぶらせた自分が映っていた。
黒い双眸だけがやたらにぎらぎらしていて、己が姿ながら見ていてあまり楽しいものじゃない。なので、奥の扉を目指した。

いつも使っている個室の鍵を確認し、溜息をひとつ。誰かが使っているのを一度として見たことはないが、念のためだ。あとは簡単、中に入って、壁に凭れたら―――脊髄反射的に涙が出る。
つるりとしたドアを押し開け身を差し入れる。



「やあ、ようやく来た」



―――――?!

世界が凄い勢いで回転した。何も入っていない筈の胃袋が、攪拌されてわやわやになる。何だ?何が起きたんだ?
捻り上げられた手首を支点に、身体が放り出され、壁に叩きつけられる寸前で、止まった。
おかしくなったのは胃だけじゃない、頭もだ。そうでなければ何故、ここに彼が居るのだろう?

鼻先が触れそうなほど近くに、佇んでいるのは―――にっこりと微笑む白柳。


「意外と来ないから、俺ずっと待ちぼうけだったよ」
「…は、こやな…ぎ?」
「うん、俺」と彼は首を傾いだ。ちょっとしたサプライズがうまくいった時のように。「月下が此処でへこんでるの知ってたから、待ち伏せしてたの」
「待ち伏せ…?」
「そう。―――逢いたかったよ?」

どうして?何故、そんな必要があるんだ?

「どうして、って顔してるね…ふ、あはは…」

白柳は自分の身体で、僕を個室の壁に押し付けた。膝で太股を、肩で、僕の肩を封じ込める。僕ほどではないが細身の部類に入るのに、彼の力は抵抗を赦さない強さがあった。混乱したまま、背中や尻をバウンドさせて跳ね返そうとするも、びくともしない。薄く微笑んだ表情のどこにも、無理をしている様子はない。

「君に興味があるから。色々話したいから。…キューマの邪魔のないとこでね。ま、今はもう邪魔なんてしてこないだろうけれど、イチオウ」
「色々、話したい…?僕と、何を?何も話す事なんてないだろ」
「あるよ」

細い中指がすうっと視界に入ってきた。何かのしるしを付けるように額を軽く押し、そのまま眉の上をなぞるようにして頬から顎へ触れていく。酷くぞくぞくとする、…故もなく、恐ろしいとすら思う触り方だった。

「ねえ、サカシタ。君はどうして久馬を避けるの?」
「……」

久馬のことが嫌いだから、という決まり文句を言おうとして、失敗した。そう答えるには、あまりに彼が好きになり過ぎている。

「僕は…」
「久馬のことが好きなんでしょう?…恋愛的な意味で」
「……っ?!」
「分かってる、バレバレだもの。なのに避けてた。結局、今度は避けられる方に回ってるわけだけどさ、それ、どうして?」

白柳の――彼の友人のそれとは違う種類の――端麗な顔がさらに擦り寄ってきた。頬骨と、彼の頬がひたりとくっつく。滑らかで、ひたすらに冷たい。覗き込んでくる目と同じように。この同級生の笑顔が作りものであることに、僕はようやく気付き始めていた。それは、相手(例えば今に至るまでの僕だ)を油断させるための擬態に似た、別のものだった。

「答えなければ離さない」
「……そ、…だからっ」
「え?」
「嘘…だから」

もうひとつの、予防線。久馬を厭えないのなら、そう言うしかない。
他の答えを用意するほどの余裕は無く、自分用の言い訳を白柳に対して使った。繰り返す度におぞましい早さで馴染んでいく魔法の呪文だ。
その後のフォローをどうするかなんて、考えつきもしないで、僕は口走った。

「嘘?」
「そうだ」
「何が?」
「思い込みで、…錯覚なんだ。僕が彼を好きだとしても、それは全部嘘なんだ。そう、思い込まされてるだけなんだ」

白柳の声が、耳朶を噛む。

「―――何に?」








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