境界線



(月下)


久馬のフォームは、それがトラックの上だろうが喧嘩で繰り出したストレートだろうが、分け隔てなく、とてもきれいだった。
屈折した腕が真っ直ぐに伸びた時、彼の全身を、それこそ爪先に至るまで集中力のようなものがみなぎった。僕はただ、目を見開いて怠惰に眺めることしかできなかった。

ぱかっ、という意外にも軽い音の後で、文字通り新蒔は吹っ飛ばされていた。

「…!」

その光景に僕は言葉を失った。…いや、もしかしたら何かを叫んでいたのかもしれない。わからない。一瞬の間、視覚以外のすべてが働きを停止していたように思う。

呆けている、場合じゃない。

「――何の真似だ」

間に入ったところで、僕の力の無さでは新蒔の楯になれるかも怪しい。それでも――久馬に静止されたって、放ったらかしにできるわけがなかった。

久馬は二撃目だったのか、長い脚を蹴りださんとしていた。革靴の先を見つめていたら、彼はそれをゆっくりと下ろした。
声の穏やかさにぞくりとする。表情はつまらなさそうにすら見えた。

(「このひとが本当に怒った時は、こうなってしまうのか」)

「…おら、戻れよ」

当たり前のように、あたたかい彼の手が、痩せた僕のそれを捕らえようと伸びてくる。振り払いたくない、と体が啼く。足首がきゅう、と痛む。

――動け!


「…っ」

いきおい、新蒔にすがりつくような格好になってしまったが、後輩の惨状を前に躊躇いなんてかき消えてしまう。首をかくりと垂らす、新蒔の鼻から口脣付近は赤く汚れている。シャツの襟の先や、教室の床にも、染みは拭いがたい過失のように落ちている。

鼻血は見た目こそ派手だけど、きちんと処置をしたら何てことはない筈だ。だから、大丈夫。大丈夫なんだ。自分にそう言い聞かせながら、鈍い指先を叱咤して、新蒔を揺さぶる。ううう、と唸り混じりだけど反応があった。

「っつ、痛ってぇ〜…」
「た、立てるか?…サイトウ君、そっち持てる?」
「あ、…はい!」

巻き込まれる形で地面に投げ出されていたサイトウは、それでも、ぱっと顔を上げると骨っぽい肩へと取り付いた。勢いよく転がっていたものの彼はまだダメージが無さそうだった。…良かった。
身長差は結構なものだったが、サイトウと僕とでよろめきながらも何とか新蒔を支えて立ち上がった。

「親父にだって殴られまくりなのに…」
「…いいから、喋るな…」

鼻の下を擦ろうとしていたので、ポケットからハンカチを抜き取って、彼の顔に当てる。流石の新蒔も相当痛むのだろう、触れたところの筋肉が強張っているのが、布越しにも分かる。薄水色のそれがじんわりと鮮やかな色に染まった。
頬や口の端に付いた飛沫はもう乾き初めている。顔を洗いでもしないと駄目だ。殴られた所も気になる。堪らなくなって、僕は目を細めた。

「――月下」
「……」

静謐な――場にも、彼自身にも酷く不似合いな声。
名前を呼ばれただけで、腰が砕けそうになった。少し掠れて、低い。こんな近さで聞けるだなんて、ちょっと前なら考えもしなかったのに。

「月下」
「…どうして…」

肩に掛かる重みを確かに感じながらも、僕は彼の、端整な容貌を凝と見た。記憶にある限り、自分から久馬と向かい合うのは初めてのことだ。

怖い。
どうして。
なぜ?

思考も感情も、ただ三つの言葉に収斂されている。だからまともになんて考えられないし、動けない。普段ならする筈もない言動はその所為だ。

「…どうして、久馬」
「…ムカついたから」
「むかついたって…、」

僕の思い込みじゃなかったら、久馬は、彼自身すらも戸惑っているようだった。つまらない、ってのとは違うんだ。

彼は、困惑していた。

あんなに迷いなく拳を振るったのが嘘みたいだ。短い前髪をしきりにかきあげて、僕の視線を散らしている。らしくない。付き合いの浅い人間に言う資格はないと分かっていても、それでも。

「…そんな子どもみたいなこと…」
「うっせえな」
「――…っ」

抑揚なく久馬は言い、――同時に長い腕が僕の襟首をしかと掴む。間合いが詰まって、襟元が絞まるまで、ほんの一瞬。今度は逃げられなかった。

「…う、」

普通に苦しい。肩に新蒔の腕を乗せたままで首だけ久馬に引っ張られているのだから当たり前だ。

「さっちゃ…」
「バカ!」
「新蒔、いい!」

枷を払おうと、新蒔が身動ぐ。サイトウと僕は申し合わせたように、彼の肘から先を抑え込んだ。うんうん呻いてるけど、新蒔自身の為だ。
久馬は僕を締め上げているのが自分じゃないみたいに、いつもの調子で「なあ」と言った。

「…お前、どーすんの」
「どうする…って、新蒔を保健室に連れてく」
「そのチビがいるから必要ねーだろ。…授業だって始まる」
「…久馬…」
「分かったなら席戻れ。…そいつのことは放っておけ」
「……」

授業がどうとかいう問題じゃないって、本当は久馬だって分かっている筈だ。彼の面には、後悔も、怒りすら、見出だせない。長い雨宿りの中で、そこから抜け出すタイミングを失してしまったような表情を見ている内、僕は意味もなく謝りたくなる。

ごめん、…本当に、ごめんなさい。そう言うのは簡単だ。久馬に叱られたように、僕の口癖みたいなものだから。

(「でも、何に謝るんだ?」)
「…どうして、なんてなぁ」
「…え、」

意志の強そうな眉の始点が、刹那、ぎゅう、と寄せられた。まるで自分が苦しいみたいな、そんな感じだ。

「どうして、なんて…むしろこっちが教えて貰いてーよ…」

久馬が辛そうにしているのなんて、厭だ。僕がその鬱積を晴らすことが出来たら、どんなに幸せかとすら思っていた。
…でも。

「そ…、んなの…!」

新蒔を殴る理由になんか、ならないじゃないか。
この人のいい後輩は、ただ僕を訪ねてきただけなのに。…僕が自分の欲に従った結果、何かあったんじゃないかって心配して来てくれただけなのに。

「そんなの、久馬にしか分からないじゃないかっ!」
「――!」

首を締め上げられたままで、僕は体当たりの要領で彼を跳ね返そうとした。無我夢中だった。支柱のひとつがいきなり抜けて後輩たちがぐらついていたのも気が付かない有り様で。
しかも圧倒的な体格差に負け、久馬に飛び込んだだけで終わってしまった。

「…っわっ…!」

足がふらっとなった僕を、何を思ったか、久馬は腰から支えてくれた。突き放せばいいのに、――その方が、僕は彼を責めるふりで、自分を糾弾することが出来たのに。

「放せ…!」

彼の体温が怖い。言うべきことややるべきことをリセットしたくなってしまう。

「――離すさ、…頼まれなくたってな」
「…きゅう、ま?!」

間違いじゃ――錯覚でなければ、久馬は僕を一度、抱き締めた。固い胸に、貧相な体が閉じ込められる。ひとの鼓動に揺るがされて、自分の心臓が動いているみたいだった。


「お前といると、俺は自分がわかんなくなるよ」


とん、と軽く突き飛ばされて。

「えっ、き…」
「比扇、橿原、そいつら摘まみだしといて。――…飽きたわ」

耳に届いた台詞の真意を問い質す合間もなく、僕が次に目にしたのは――見慣れた、彼の広い背中だった。

入れ替わりのように橿原と、比扇、呼ばれていないのに城崎が机や椅子を避けながらやってくる。
久馬は、白柳に二言三言何かを言われたのに、面倒そうに頷いていた。それから弁当の残りを乱雑に纏め、自席へ腰を下ろした。茶髪が机に突っ伏している。

(「…あ、」)

立ったままの白柳がふっと、僕に視線を寄越した。彼は、一連の喧騒が映画か何かみたいに、傍観していたようだった。

――ハ、ヤ、ク。

薄い、磁器のような口脣が緩やかに、はっきりと動いた。
そうだ、急がなくちゃ。

「さっちゃん、」
「僕は平気。…それより、ごめん。こんなことになって」

新蒔とサイトウとを押し出すように、教室の扉まで導く。城崎が僕の名前を呼んだ。振り返らずに二人を廊下へ出した。他のクラスも生徒が戻ってきている。授業が始まってしまえば、如何に城崎たちでも追いかけたりはしない筈だ。
保健室には一緒に行けない。ここでドアを閉めて、時間を稼ぐ。

「…早く、行け」

後輩にはいつも、笑顔で逢いたいと思っていた。でも、今だけは駄目だ。泣く資格も、無い。
新蒔はなおも何かを言い掛けていたが僕はぴしゃりと扉を閉めた。無機質なそこに背を押し付けて部屋の中を見る。


皆、何事も無かったかのように席へ戻り、あるいはお喋りに興じていた。
久馬に命じられて来た三人もくだらない、と言わんばかりに肩を竦めて帰っていく。
振り向いて見た教室の中は、空々しいほどに元通りになっていた。

僕と、久馬の関係を除いて。







―――その日を境に、久馬は僕を完全に無視するようになった。


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