嚆矢



(月下)


「ど、どうしたんだ…?!」

僕は椅子が倒れるのも構わずに立ち上がり、後輩の元に駆け寄った。周囲にいた同級生たちは、皆何事かとこちらを見ていた。

初め、ただの好奇に思えたそれらの視線に、明確な敵意が混ざっていることを悟って僕は震え上がった。
特進科の中には選民意識みたいなものが強いやつらもいる。全員が全員そうじゃないけど、あまりに新蒔の登場の仕方が派手過ぎた。
…まずい。

「さっちゃん、これこれ!洗って持ってきたぜー」

金髪の後輩は教室に充満しつつある空気を全く気にした風もなく、朝方、僕が人づてに渡した弁当箱をぶんぶん振っている。無事彼に届いていたことに安堵しながら、昼休み特有の、乱れた机や椅子を掻い潜ってようやく新蒔のところまで到着した。

久々に逢う後輩はとても元気そうである。僕が新蒔に逢いに行ったことはあったが、彼が特進の教室を訪ねてくることは初めてだ。
同じ学園内とはいえ、日夏は広い。他の学校なら弁当箱を返しに来る程度、なんということもないだろうけど、ここは別だ。

「…わざわざ、持ってきてくれたのか…。ありがとう」
「いやぁ、だってさっちゃん抜きで弁当だけなんだもん。オレの嫁になんかあったかと心配しちゃったぜ」
「あ…そう、か…」

桜でんぶアザッス、なんて破顔している新蒔に、申し訳ない気分でいっぱいになる。やはり、朝一に弁当だけ渡したのは不自然だったみたいだ。自らの欲求を優先させた結果、後輩に心配掛けてしまったのなら、尚更だ。
伏し目がちになった僕に、あくまでも朗らかな声が降ってきた。

「そそ、そんでな、礼のついでにこの前話してたご褒美、持ってきたからさぁ、」
「…ご褒美…?」

…何の話だっけか。

「おーよっ、て、…ぐぁ?!」
「ふざけんな新蒔!放せって言ってんの!」

後輩が突然苦悶に叫び、同時に彼の腰辺りに転がしてあった――ことに僕は今気付いたわけだが――荷物が怒声を上げた。
…怒声?

「クッソ、窒息するかと思った…」

赤く腫れた左手を振り回している新蒔の隣に、ふいに、スワロウカラーのジャージを着た少年が立った。立ったというか、生えたような感じだ。
妙なことに彼のジャージの両袖は、胸の前で固く結わえられていた。ごそごそ身動ぎをして、ようやくの態で拘束を解いている。

「うぉいサイトー!てめ、ふざけんなよ痛ぇよ!」
「それはこっちの台詞だこのアホウ!シャケ!魚類!いきなり人のことさらいやがって何考えてんだ!」

少年――サイトウ、と呼ばれた彼は、とても小柄で、柔らかな栗色の髪をしていた。そして物凄く怒っていた。ジャージのエンブレムの星は一つ。特進なら七つだから、彼も新蒔と同じ普通科所属なのだろう。
それにしても普通科の頭髪規則は緩くなったのだろうか、朝の生徒といい、このサイトウという生徒といい、染めたような色合いの人ばかりだ。その髪を散らしながらかぶりを振り、尻や膝の裏をはたいている。まるで水を浴びせられた仔犬みたいだ。

「…お前はむしろ感謝しなくちゃだぜサイトーよ」

必死に身繕いをしているサイトウ、手の赤みが歯形だと分かってハラハラする僕を余所に、新蒔は重々しく言う。

「これから人助けが出来るんだからな」
「…人助けぇ?」
「…?」

不審げな少年の、その双眸がこちらをきらりと射る段になり、僕は再び驚いた。サイトウの目がとても色味の薄いものだったからだ。カラーコンタクトでも入れているのだろうか。
新蒔はその小さな肩にぽん、と手を置き、彼と僕とを正面から向かい合わせにする。疑問符まみれの様相でサイトウが新蒔を見上げる。僕も彼と似たり寄ったりの顔つきだろう。


「さっちゃん、コイツ調理部入れるから」
「え…っ」
「はあっ?!」


横と前からの反応が驚愕でしかなくても、後輩の表情は素のままだ。
僕はぱちぱちと瞬きを繰り返す。頭は見事に処理を為損なっている。
呆けているのを何と解釈したのか、新蒔は快活に笑った。ふたつの頬にえくぼがぺこんと出来る。

「部でいるためには人間が3人必要なんだろ?」
「…あ、ああ…。そう、そうなんだ…」

調理部は目下、僕と、幽霊部員の新蒔、2人だけだ。
去年までは生徒会の査定も緩く、特にうるさいことは言われなかった。
でも、今の執行部体制になってからはきちんと通達が来るようになった。既に顧問の先生からは一度、「このままじゃ降格するよ」と言われている。
部活から同好会になってしまうと、予算や教室利用が厳しくなる。今だって僕1人だから、何がどうって感じもするし、…糸を理由に交友を稀薄にした自明の結果ではあるけれど―――それでも、新蒔の提案は嬉しかった。

「…本当に?」
「もちのろんよ!この前言ったじゃねーの、頑張ってるさっちゃんに、ご褒美あげるってさ」

屋上階段での会話が甦って、ようやく得心がいった。
そうか、新蒔が言っていたのはそういう意味だったんだ。

「嬉しい…!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」

サイトウが僕たち2人の前にぱっと出る。
髪やカラコンのことを除外すれば、特に派手でもないし、ごく普通の生徒だ。むしろすっきりした顔立ちをしていて、新蒔とは好対照の男だった。
小作りの鼻の頭に不本意そうな皺を薄く寄せて、彼は言った。

「俺、そんな話今初めて聞いた」

対する新蒔はあっけらかんとしたものだった。

「だって今初めて言ったもん」
「えっ」と僕。
「『もん』じゃねえ!いい加減にしろ……、っあ、す、すみません…」
「あ、…いや、気にしないで…」

段々と状況を理解した僕は、おそらく目に見えて消沈していたのだろう。怒鳴り掛けていたサイトウは、こちらを振り返って困った顔になった。
優しい新蒔のことだ、きっと喜ばせるつもりで騙し討ちのようにして友人を連れてきたのだ。
少し考えれば分かることではあった。好き好んで調理部に――しかも過疎まっさかりの部に入る男子なんてそうは居ない。

口脣の先を尖らせている後輩と、困惑しているその友達とを交互に見、礼を口にしかけたときだった。


「…で、テメェらはいつまでここにいるつもりなんだよ」
「―――っ」

首にぐるり、と温かい感触――他人の体温が巻き付いて、呼吸は、壊れた時計みたいに停止した。耳に流し込まれたのは、年の割にはやたらと色っぽい声だ。

「…きゅう、ま…」
「挨拶もねーし、喧しいし、長居もするわでどうしようもねぇな」

声の主―――久馬が近付いてきたのに、話に夢中になっていたから全く気付かなかった。残り2人も右に同じくだったらしい。食事を摂っていた筈の同級生は、僕のひょろい首に腕を絡め、下級生に睨みをきかせていた。
吐き捨てるように言い放って、そのまま、引っ掛けている肘でもって僕をぐい、と自分へ寄せる。

「なに。こいつら。…俺の聞き間違いじゃなければ、お前が朝方弁当持ってったヤツってことになるけど」
「…っう、」

近い近い近い!
どんなに不機嫌でも、久馬の秀麗な容貌が損なわれることはない。頬骨が衝突しそうな程の距離に、頭の中が沸騰しそうになる。体が発する熱がこのひとにまで届いてしまうんじゃなかろうか。ぎこちなく、肯定をするのが精一杯だ。

「…あ、ああ…」

僕の返事に、しかし、久馬は剣呑に眇めた目をさらに険しくしただけだった。形のいい口脣の端が苛立ちに捲れ上がる。
…久馬は歯を剥き出して怒りを露にしていた。

「コイツと俺と、どこがどう似てんだよ、あァ?!」
「ひ…っ!」
「五文字以上十文字以下十秒以内で言えよオラァ!」
「か…格好良いとこ…!」
「「どこがだッ!!」」

何とか答えられた、と思いきや、久馬とサイトウとが即座に突っ込み、…当の新蒔ですら「えー」と不服そうにぼやいた。

「オレの方がカッコいーじゃんフツーに」
「お前今すぐ鏡見に行った方がいいよ、うん、すぐ行けトイレ行ってこい」
「またまたぁ、サイトウジェラっちゃって」
「ジェラ…は?」
「ジェラシー。嫉妬。…だいじょーぶ、オレはサイトウのこともそこそこ愛してるから殺されない程度にな!」
「うっせえよ!テメェらは黙っとけ!」

がたがた、と方々で椅子の脚が鳴る音がする。久馬の肩越しに背後を振り向き――自らの迂闊さを呪った。まずい、と思った時に、新蒔とその友人を外に連れ出すべきだった。

音の出元は主に僕たちが先ほどまで座っていた辺りだ。白柳は薄く、刃のような笑みを浮かべている。輕子は無表情、城崎、橿原、比扇…その他の連中は確実に久馬の指示(或いは出方)を待っている様子だった。さながらゴーサインを待つ狩猟犬のようだ。

約十人ほどが立ち上がり、威圧感たっぷりに僕らを眺めていた。


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