災厄の箱



(久馬)


よしよし、悪くない。
月下はそれなりの速度と警戒心のなさで反応するようになっていた。時折、そっと笑いもする。対白柳のときと比較しても遜色ない感じだ。初めてまともに喋った数週前に、俺たちは戻ってきたのだ。

正直言うと、自分でも平然と話せるか少しは心配してたんだ。
なにせ、思案げに、ともすると申し訳なさそうに受け答えをしているこいつは、夢の中じゃ俺にしがみついてあんあん喘がされてんだから。当たり前に月下は知る筈もない。そんなやつ相手に自然に接しろ、というのは中々ハードルの高いミッションだったぜ…。
ま、俺にできねーことはねえって話だな。練習もねーのに、わざわざ早起きして月下時間に合わせた甲斐があったぜ。お年寄りみたいに毎日かっきり同じ時間で動いてくれるから非常に助かった。

ハコのDVDの所為で毎夜の夢はエスカレートする一方だ。俺の優秀な脳味噌は、記憶にある月下の表情とか声のバリエーションを総動員して、例のゲイビの内容をなぞる。忠実な再現具合に感心を通り越して無言になるぜ。流石に本番までは到達していないけどな。…お袋の言う通り、いい加減欲求不満なのかもしらん。

「おはよー久馬ー」
「おはー」
「おー」

事情は知らねーが、普通科への面倒な寄り道を済ませて、ようやっと教室に到着した。同級生の挨拶へ適当に返事をしながら、席に向かう。あ、月下の荷物、そろそろ返してやるかな。

「まったく、年上が下に弁当貢いでどーすんだよ」

言いながら鞄を差し出すと、猫じゃらしを振られた猫みたく、彼ははっしと飛び付いた。

「…だって、食べてくれるの嬉しいし…」

だったら俺が食う、とは流石に言えなくて、喉元で声を押し潰す。月下をビビらせず、かつ、ハコに馬鹿にされんでも済む方法を考えなくちゃならんな。

「おっはよう……うん?なに、今日は二人で登校?」

噂をすれば影が差す、だっけか。軽い足音と一緒に、背後から声が掛けられた。振り返らないでも分かる。白柳。

「…よお」
「お、おはよう、白柳」
「うん、おはようさん」とハコはにっこりと笑った。「サカシタ、今日はちょっと顔色いいね」
「そう、か…?」

月下は困ったように、でも、少し嬉しそうに首を傾げてから自分の席に戻っていった。

「――…ねえ、」

薄い背を見送っていたら、

「なに、…見せつけてんの?」
「…ハァ?」

机に座ったハコがニヤニヤ笑いながら聞いてきた。うっそりと見返ると、その笑みは濃度を増した。

「月下とさァ、随分仲良くなったみてーじゃねーの」
「……」
「手のひら返したみたいな態度。どうしちゃったの?」
「…さあ、…どうしたんだろーな」

自分自身でもさっぱりだぜ。ただ、目に見えて月下が消耗していく、その原因が俺だっていうことが、何とも堪らなくなったんだ。
ああ、俺がこいつを見ていたように、こいつも俺を見てるんだって。

「…ま、見せつけてんだよ」

わざわざ人にばらすような感情じゃねえ。努めて軽い調子で言い放つと、ハコは糸目をまんまるに見開いた後、顔を苦々しく歪めた。意趣返しがうまくいったような気分になって、俺もさっさと席に向かう。

餓鬼が、と呟く声が賑やかな教室に融けていった。



午前の授業が終わり、定例となりつつある、皆で仲良くご飯タイムの始まりである。以前は専らハコと食っていたが、月下の隣に移動してからこちら、興味深そうな態で他のやつらが群れるようになっていた。
月下に話しかけているこの輕子、城崎の親友で東洋的な顔立ちの男である。ハコから変態要素を抜いて、もう少し隙を作ったら彼の出来上がりだ。…つまり、飄々としていながらも、そこそこ懐っこい性質をしている。

「月下さぁ、こんなん、朝起きて作るの面倒臭くね?」
「な、慣れれば…平気。前の日の夜から支度したりもするし…」

それでも、人馴れしないのが月下クオリティである。感心したようにつくね串を摘む輕子に、ぼそぼそと答えている。

「女だったらいい嫁さんだよ。今すぐ貰ってもいいくらい」とハコ。

てめぇが言うと不必要に厭らしいぞ。

「それは久馬に下心があるからでしょ。不潔っ」
「下心で構成されてるような男に言われたかねーよ」
「…ははっ」

「……」
「……」

微かな笑い声を上げたのは――月下だった。びっくりして隣を見たら、目が合った。一重の、穏やかなそれが「良かったな」と言っていた。

「―――っ!」

途端に、体の奥から気管に至るまで、得体の知れない何かがぎゅうと詰まった。外に露出している皮膚が一斉に赤くなっていく、感じ。思わず手を見たら、色以前にかたかた震えていた。慌ててペットボトルを掴む。飲む!

「あ、このタレうまい」
「輕子、構うな」
「キノも食ってみればいーのに」
「うっせーよ…。なあ久馬、今日の帰りマルキン行かね?」
「昼飯食ってんのに、もう買い食いの話?あ、月下、俺にもそれ頂戴」
「…え、あっ、ああ、ちょっと待って白柳」

クラスメイトのやり取りが酷く遠く聞こえる。机に目を落とすと、つくねを串から丁寧に抜く白い手指が見えた。そこに沿って視線を上にもって行く。赤くふっくらした口脣、肉の薄い顎の線、複雑な曲線を描く耳の骨。

―――ずくん。

(「…あ、やべ」)

全身が波打っている感覚。目頭がチカチカしている。熱が下腹部に集まっていく。
欲情、してる。

「…久馬?」

(「あー、くそ、このタイミングで呼ぶなよ」)

きょとんと俺を覗き込むこの顔に、昨晩はアレをぶっかけた。月下は美味そうに鮮やかな色の舌で舐めとっていた。

「どうした…あ、」
「……っ…」

余計なことまで思い出してしまって、つい渋面を作る。小便を我慢している時の心境と似て非なるものだ。
俺の焦燥も知らず、月下はたれが伝い落ちる指を口元にやってぺろりと舐めた。夢と全く同じ色をしたそれに、記憶力の良さが恨めしくなる。どんだけだ。

鎮まれ。

飯を食っている、しかもこんな日の高い内に反芻していいもんじゃねえっての。パンドラ宜しく、開けてしまった蓋をもう一度押さえ込む。落ち着け俺。ビークールだ俺。


「おーここかあ!有輝んとこもだけど、特進の教室って無駄に広いよなあ!」

選択音楽で聞いた、アイネクライネナハトムジークって何かの必殺技みたいだよな、と必死に意識を逸らしていたら、頭の悪そうな声が部屋中に響き渡った。…いや、語弊があったな。「そうな」じゃない、外見からしてバカだと確信出来る風体の男がどかどかと教室に入ってきた。
そりゃ、俺らの学科は野郎しか居ないんだ、坊っちゃん育ちが多かろうが、声はでかいし動作も粗雑だから休み時間は喧しいさ。だがそれを上回る大音声に幾人かは何事かと立ち上がりさえする。

ひょろりとした身体つきに、浅黒い肌。よれたシャツの上に羽織った学ランで所属は明らかだった。腰履きでトリコロールカラーのベルトをし、頭髪を黄色に染め上げた普通科なんざ初めてお目にかかったがな!

ざわつく中をそいつは何かを引っ張りながらやってくる。ここが上級生の教室で、何より特進科の校舎だってことに、毛ほどの遠慮もなく。

「あ…っ」
「お、さっちゃん発見!うおーい、さっちゃぁん!来たぜぇ!」

最も俺の衝撃はそれだけじゃ済まされなかった。
隣に座っていた月下が、勢いよく立ち上がったのだ。自然、周囲の連中の視線を集めることになるが、彼は意に介さないほどに闖入者を注視していた。

――ん?

「…『さっちゃん』…?」
「新蒔…っ?!」
「ハァ?!」

今、何つったよ。

「新蒔、だあ…?」

月下曰くの、俺によく似ているらしい普通科の人気者、かつ、中等部時代の後輩。新蒔ってのはそいつの名前だった筈である。
異分子に対する敵意に充ち満ちた教室で、へらっとした表情で立つ男を、確かに月下はそう呼んだのだ。


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