ふたりV



(月下)

トイレで泣いたのはまずかった。人気のない、共有棟の一番奥にあるそこで、個室に閉じ籠って声もなく涙を流していたら、段々と落ち着いた。
感情の振れが鈍くなっていた分、ブランクを取り戻すように僕はよく泣いた。蓋を下ろした便座に腰掛け、あるいは壁に背中をもたせかけて、擦ると赤くなるからだらだらと零れるがままにした。…いつか身体中の水分が干上がってしまうんじゃなかろうか。

そんな調子ですっかり癖になってしまい、久馬たちと過ごしていて気持ちの堰が決壊しかける度に便所へ駆け込むようになった。席を立つ僕を観察する、二対の眼差しの存在も知らずにいた。

…良い変化がひとつだけ、ある。
食欲のあるなしに関わらず、弁当を詰めるようになったのだ。
自分で食べることを考えなければそれは楽しい作業だった。久馬や糸や、密やかな詮索を忘れて没頭出来るし、ともかく美味しい、と言ってくれるひとがいるのは、僕のささやかな倖せだった。久馬グループと昼食を摂るようになって、弁当箱は食欲と反比例するように少しだけ大きくなった。
白柳が楽しみにしてくれているから。――そして、間接的にだけど久馬にも食べて貰えてる、その事実が気持ちの中で占めるウェイトは、言うまでもない。

…なんだ、結局は彼のことを考えているわけか。

前日の夜から冷蔵庫と睨めっこであれこれ思案している自分に苦笑が漏れる。
母が引き揚げた後の台所で、優しいモーター音のする機械にこつり、と額を寄せた。まったく、何のために学校に行っているのかわかりゃしない。



いつもより重くなった弁当袋を片手に通学路を歩く。以前あったように崩してしまうわけにはいかないから、今朝は弁当袋を別にして提げた。

夏はほんとうに涼しげで、見下ろす度に素足を突っ込みたいな、と思わせた川は、同じ表情を冴々凍てつかせていた。川沿いに掛かる樹も紅葉を終え、骨みたいに腕を突き出している。幾ばくかの赤い葉がそこへ必死にしがみつく。厭が応でも季節の経過を感じる眺めだ。
グラウンド脇に差し掛かって無意識に広いトラックを探し――そんな自分に気付いて、慌てて目を逸らす。
うまいこと行っていなくても、僕は久馬の存在を追ってしまう。最早習慣に近かった。向日葵なんて僕のイメージとは対極だけれど、太陽を望み続けて肉体を失ってしまったニンフのようだった。
求める影は、居ない。奥の方で野球部っぽい連中が集まっているくらい。
よくよく考えてみれば今日は水曜日で、陸上部の朝練が唯一お休みの日だった。確か当人がそう話していた。彼のことならどんな些細なことだって憶えているのが恨めしい。

誰に見られているというわけでもないのに、そそくさと歩みを早めた、そのとき、


―――くん、


「!」


慣れた感覚が左足に奔る。僕はこの感じを知っている。足首に結わえられた縄が引っ張られているんだ。想像が間違いなければ、

「うりゃあ!」
「…っうわっ?!」

景気の良い掛け声と共に首のあたりに重い衝撃が襲う。抵抗もなく前のめったら、焦ったような呟き、そして今度は後ろに引き倒された。力強い腕がぐるりと体に回る。

「おっ…前、弱すぎだろ…!」
「きゅうま…」

僕を肩口に抱え込んだ格好で支えていたのは、久馬そのひと、だった。

「全くどんだけモヤシなんだよお前はよ。危うく俺まで巻き添えじゃねえの」

逆光で見下ろす精悍な面差しに意識が丸ごと握られるようだ。頭じゃ分かっていた筈なのに、あまりの近さに色々な所が沸騰しそうになる。ジャケット越しなのに、接したからだの熱が伝播していく。薄く、形の整った彼の口脣から、甘い吐息が伝わってくる。

「ち…、近い…」
「…あァ?なんだ」
「近い、から、…あの、離れて…」
「…」

背中で彼の体全体を押しやるようにすると、久馬は無言で離れた。よろけた所為で肘まで落ちていた鞄のベルトを肩まで引き上げてくれる。何気ない仕草に胸が痛む。高揚と混乱、半分半分だ。

「……」

何か言った方がいいに決まってる。しかし思い付かない。例によって正視に耐えかねた結果、久馬の腹のあたりをうろうろ見ていて、服装が違うことに今更気付いた。

「…あ、今日、」
「あー?」
「ジャージ…」
「あー、服装な。家から走って来たから、今朝。学校着いてから着替えようと思ってたし」
「そ、そうなんだ…」
「そうなんだよ」
「……」
「……」

会話が見事に続かない。心情的には泣きたいけど、こんなところでぼろぼろやるわけにはいかない。

「お前さ、」
「あ、ああああ、うん?!」

久馬は片眉をぴんと跳ね上げた後、溜め息をついた。

「あのさあ」
「う、ん…」
「何つーか…、あ、取り敢えず歩け」

言われて、ようやく立ち止まっていたことを自覚した。機能不全のロボットみたいにぎこちなく前を向き、一歩、進む。歩き方が思い出せなくなってしまった気がする…。
久馬はもう一度、ふっと息を吐いてから、僕の隣に並んだ。前じゃなくて、隣に。

「月下、さぁ」
「え、あ…あ、なに」
「その、…元気か?」
「……」

いつぞやも同じことを聞かれたな、と思いつつ、「元気だ」とは即答しかねた。曖昧に頷く。

「そこそこ…元気…」
「そっか」

返答をみるに、久馬にとってもあまり重大事ではないのだろう。挨拶みたいなものかもしれない。

…忘れてた。

「あ、あのっ」
「あァ?」
「おっおはおはっおは、よう…」
「オウ」
「……」

…僕の馬鹿。おはおはって何だよ。二度と自主的に口を開くべきではないのかもしれない。墓穴をショベルカーで掘削しているみたいだ。むしろその中に入りたい。

「お前さー、」
「えっ、な、なに?」
「ハコのこと、どー思ってんの」
「…へ?」

自己嫌悪に苛まれていたら、前へ目線を据えたままで久馬はそんなことを聞いてくる。
…白柳?

「…クラスメイト?」

どうしていきなり彼の名前が出てくるのだろうか、と思いながら答えると、頭が軽くはたかれた。

「っ、」
「バーカ。それは事実であって感情じゃねーだろ。…好きとか嫌いとかそうゆう話だよ」
「……」

唐突な上に、およそ久馬らしくない話題だった。対象こそ違えど、以前僕がした質問によく似ている。聞いた本人も不本意らしく、眉間に皺を寄せていた。
会話が続いていること安堵しながら―――、考え考え、答える。

「す、好きか嫌いかなんて…よく分からないけれど…」

でも、彼はいいひとだ。

「…多分、好きな方なんじゃないかな…」
「ふーん」
「優しいし、親切だし…話、ちゃんと聞いて、くれる。…大抵のやつが白柳のこと、好きだって言うと思う」

ああ、でも、城崎は白柳のこといけすかない、って言ってた。確か、城崎と輕子のお喋りで聞いたことだ。

『―――あいつはすぐ久馬のものを盗るんだぜ。久馬も好きにさせて、よくわかんねぇよ』

噂は聞いたことがある。
久馬に告白した女の子たちは、多くが宗旨替えして彼の親友の方と交際しているというのだ。実際を知らないからコメントのしようもない話だけど、気に入らない白柳が構うから、城崎は余計に僕が鬱陶しいらしかった。あいつら二人で組めばいいのに、と裏で言っていたのも知っている。

(「…もしかして、」)

「き、久馬…」
「あ?」

指の背を噛む僕の様子を、彼はじっと見つめていた。どうやらこちらが気付く前から観察していたらしい。びっくりして硬直したら、久馬はばつが悪そうに目を離す。

「あ…、あの、城崎と、喧嘩したのか」
「…今までの会話でどうしてそうなるんだよ」

呆れたように吐き捨てた彼は、僕が放った次の言葉に凍りついた。


「…じゃあ、白柳と?」




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