眩暈



(久馬)


何故、彼の姿を見た途端に駆け寄ってしまったのか、よくわからない。勝手に足が動いて、コースを出ていた。気付いた時には既に俺は月下に話しかけていて、昨日のことが嘘のような態度にむっとしているところだった。
だが何よりも俺を面喰らわせたのは、月下の問いかけだ。

「僕のこと、どう思ってる?」

そりゃあさ、元気か、とか意味不明なことを聞いちまったのは失言だったよ。月下だって変な顔してたし、言った俺自身も内心で首を捻ってるくらいだからな。
だって考えてもみろ、夢の中でオカズにした奴が現実に目の前にいるんだ、幾らなんでも平然としてはいられない。
でも、月下だって月下だ。
人のことをじろじろ眺め回した上に、朝イチで聞いてくることがそれってどういうことだ。てめぇはみのさんか!お父さんでも分かるワイドショー講座かよ!

…しかし俺の口は糸で縫い付けられたようにぴたりと閉じたままで、罵倒の文句は欠片も出なかった。頭ん中じゃあ彼の質問がぐるぐる洗濯機みたいに渦巻いている。

――どう思ってる、だって?

(「…気になる」)

初めに浮かんだのはその一語だった。気になる。ハコに指摘されていた通り、確かに俺は月下の挙動に振り回されている。

しかもあんなにムカつく奴だと思っていたのに、実際、相手の方にはこちらを嫌う様子がない(そうだ、俺はもう分かっている。月下は俺を「嫌ってはいない」。)と悟ってからは、彼に抱いていた悪感情が薄らいでいる。昨日、数時間を過ごして、少しは普通に喋れるようになったと思っていた。そして、また振り出しに戻ったような現状に、腹を立ててすらいるんだ。
…オーケー、いいじゃないか。そこは認めよう。

だけど、「気になる」なんて言い方じゃあ、月下が求めている答えにはなっていない気がする。あまりにも漠然とし過ぎているからだ。それに曖昧な返しは俺のスタイルじゃない。もし自分がそう言われたら「どう気になるのか五文字以内で十秒以内に言わないと殴る」と遣り返すな、うん。
もっと明確な回答の方がいいんだろう、と思い、こちらの言葉を辛抱強く待っている彼を見下ろして――ぎょっとした。

月下は、本当に紙のように真っ白な顔をしていた。立っているのが不思議なくらいだった。
逆に、噛み締められた口脣は厭に赤く、目は炯々と強い意志を持っている。付き合いの浅い俺でも、彼らしからぬ表情だってことくらいは分かる。真剣に、何かを希求する双眸が俺に、…俺だけに傾けられている。

――名状しがたい感覚に、背筋が泡立った。
埜村が月下に絡んでいた時と、似ているようで違う、爆発的な感覚だ。体中がぞわぞわして落ち着かない。熱っぽい。口の中がやたらに乾いている。何を考えて彼が、こんなことを問うているのか、物凄く知りたい。

その所在とか、原因みたいなものが多分、月下に言うべき答えなんだろうけれど、俺は探ることはしなかった。それこそ、自分のスタイルじゃなかったからだ。
悩まないと分からないようなことなんて、本当は、世の中には存在しないと思う。あるのは事実だけだ。月下は、前は本当に俺のことが大嫌いだったのかもしれなくて、昨日のことがあって、平気になって、…でも、また苦手になったのかもしれない―――例えばそんな感じだ。

一瞬、ぐちゃぐちゃになった思考を散らそうと、ようやく押し出した言葉は「おい」なんて、身も蓋もないものだった。

「お前さ、ちょっと気分とか悪いんじゃねーの?」
「………」

月下は、黙っている。

彼自身は己の変調に気付いた風はない。鏡があるわけでもねーしな、仕方ないのかもしれんけど。
でもそれにしたって、ちょっとこれ大丈夫か?どついたら倒れそうだ。今ぶっ倒れたら…間違いなく俺が悪者だな。肉食獣の脇に兎が転がってたら、大抵の奴が前者の行いを疑うに決まってる。
…あー、段々心配になってきた…。

ふっと短い溜め息を吐いてから、ベンチコートのポケットへ両手を突っ込んだ。なるべくどうでも良さそうにしている雰囲気を作る。

「―――モヤシ」
「……え、」
「だから、モヤシ」

端的な印象を言ったら月下はモヤシだ。白くてひょろくて、力かけたらぱきんといきそう、つったらこれしかない。肉と炒めるとうまいよな。腹も膨れるし。
モヤシモヤシと繰り返し言う俺へ、彼はまず目を丸くし、次にそれを三角にキリキリ吊り上げた。

「ま、…真面目に考えろ!」
「うお!」

珍しい月下第二段だ。こいつ怒鳴ったり出来んの?!大発見だな。威嚇中の猫みたいに呼吸を荒げ、睨み付けてきやがる。何だか段々と楽しくなってきた。つついたら、ちゃんとまともな反応するじゃないか。少し身体を前に倒し、ヤツの顔をのぞき込むようにして、言った。

「真面目に考えての結論がそれだってんだよ。じゃあ聞くけどさ、お前は俺のことどう思ってるのよ」
「え、」
「人に聞くならまず自分から、だろ?ほら、言えよ」
「…っ」

今度は白から――赤か。感心するくらい、さあっと顔色が変わった。
口脣を真一文字に引き結び、けれど、逸らすことを許さない俺の視線にしっかり捕まってしまっている。狼狽しているのが気の毒なくらいに分かった、が、追及の手を止めるつもりはなかった。月下が言い募ってきた以上のプレッシャーで質問を繰り返す。

「俺の答えが聞きたいんだろうが」
「…、っ、うん」
「月下ァ?」
「……」



答えろ。
ほら、早く。
言えよ。



先ほど奔った昂ぶりが、また、還ってくる。蛇に睨まれた蛙状態で立ち竦む、月下へにじり寄っていった―――、

ところが、だ。


じゃりじゃりと足音がやって来て、まず、月下の視線がそちらを行った。注意が俺から完璧に逸れて、いらっとくる。仕方なく自分も背後を振り返ると、…昨日に引き続き、またしても城崎がやってきた。

「なんだよ」と俺。
「おいおい」と、短髪をばりばり掻きながら城崎は呻いた。「なんだよも何も、集合だよ。しゅーうーごーう。監督がお前呼んでこいってさ」
「あー…」

すっかり忘れていたが、朝練という名のグラウンド整備の、最中だった。友人は俺のフードをひっつかみ、それから正面に立つ相手を見た。月下は、城崎の態度に怯んだように目線を外す。ちっ、もう少しでいいところだったのに。

「月下さぁ、いつからそんな久馬と仲良くなったの」
「…え、…あっ…その、」と月下は詰まる。「…僕、…僕は」

「…別に仲良くなんかねえよ」

「―――!」

彼の混乱ぶりが余りに酷かったので、つい口を挟んでしまう。と同時に、自分の言葉がすとん、と心の底に落ちていく気分を味わった。
ベツニ仲良クナンカネエヨ。
そうだ、俺とこいつは、そういう関係じゃない。

(ならば、どういう関係なのだろうか?)
(友達?知人?ただのクラスメイト?…他には、一体何がある?)

俺が発言した瞬間の、月下の反応は見物だった。未だ紅潮したままだった顔色はすう、といつもの青白さに戻り、珍しくもまじまじと俺の顔を見た後で、細い身体は明らかに脱力した。

「…そう。」

(「…?」)

「ああ、…そうだよ」と彼は言った。とても、静かな声で。
「僕と久馬は別に親しくなんかない。剣菱先生が言ってくれて、今回、班に入れて貰っただけだから」
「お、…おう」

淀みなく、何かの台本を読み上げるみたいにして喋る彼に、城崎も少し驚いた様子だった。
いや、正直俺もどうした?って思ったよ。しかも若干腹が立った。
自分で言っておいて、凄げえ勝手なのは分かってんだけどさ、「こいつと仲良くなんかない」って面と向かって言われるのって、それなりにむかつくもんだな。
俺と違って、月下の面の上にあったのは、怒りじゃなかった。安堵と――幾ばくかの落胆が、弦が震えるように伝わってくる。

なんだ、これ。どうして、月下がそんな風に感じてる、なんて思ったんだろう。

「ごめん、呼び止めて。…その、僕、…教室に行くから」
「あ、ああ…」
「城崎も、悪い。迷惑は掛けないようにするから、…よろしく」
「あー…」

まだ湿っている芝生から、ナイロンの鞄を取り上げると、草やごみを軽く払って、肩に担ぐ。そうして月下は踵を返した。見慣れた、寄る辺のない雰囲気を纏った背中に不可思議な焦りが募る。
このまま彼を行かせるのはベストじゃない、何故かそんな気がした。
足首がずきん、と痛む。左半身から地面に引きずり込まれるような――変な具合だ。これは、ただの眩暈なのか?

「月下!」

城崎にぐい、とフードを引かれたのと同じタイミングで、俺は叫んだ。意外に歩くのが速い月下は、校舎にほど近い、要するにグラウンドからはかなり離れたところまで移動していた。

「お前、今日昼飯一緒に喰うぞ!」
「……」

相手が頷いたのか、首を横に振ったのかは分からない。彼は少し立ち止まり、それからすぐに歩き出していた。去っていった影を必死に探していたら、首が遠慮無い勢いで締まった。普通に苦しい。引き摺ってでも連れて行こうとする友人の気概には感心するが、
…どうやら城崎君は寿命を縮めたいらしいな。

「テメェは俺を絞殺するつもりか!」
「だ、だって俺怒られるのやだし…!」

仕方がないので、手を振り払い、奴の隣に並んで歩く。進行方向の先からは掛け声が聞こえてくる。じゃりじゃりする足元を殊更にかき回すように歩いていると、城崎がぼそりと呟いた。

「なあ」
「…あんだよ」
「お前、久馬、…――何かさ、ちょっと、おかしいよ」
「……」

非常に友達思いな俺は、面倒臭さも手伝って黙ってやることにしたのだが、友人の声は身体のどこだかに、妙に突き刺さった。
言葉の欠片が鋭い形をとって、自分の中に残ってしまったような気が、する。

『おかしいよ』

言葉尻は違うのに、そこには、白柳の台詞と似た響きがあった。



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