糸の影響



(月下)

昨日から僕は、ずっとぼんやりしている。
正しく言えば、昨日の放課後を久馬と過ごしてから、ずっとだ。別れた後も、帰宅しても、寝るときも――こうして登校している今ですら、雲の上を歩いているような、浮遊感に支配されている。

久馬とあんな風に親しく話せるなんて、少し前なら想像もつかなかった。彼は学年でも人気者で、普通科にだって名前が知られているようなやつで。対する僕は根暗で孤立していて、先生の厄介になっている生徒で。

クラスメイト以外の接点なんて何も無かったのに、赤い糸が現れてからは、それまでのブランクを埋めるように距離が近付いてきている。
皆、そうだったのだろうか。…僕が見続けてきた――糸に絡められたひとたちは。


久馬と準備室で話した、その翌日だった。
僕はズルズルと縄を引きずりながら、靄掛かる川沿いの道を歩いていた。
人気のない、朝の空気は冷たくて気持ちがいい。思考の隅々まで久馬に明け渡してしまった僕の頭を、芯から冷やしてくれそうな気がする。

(「…昨日は、楽しかったな…」)

僕たちはまるで、気安い友人のようだった。
恐る恐る言葉を選び、顔色を窺って接していた初めが嘘みたいに、自然に過ごせていた。久馬も楽しそうにしていた、と思う。流石に肩を組まれたときは吃驚して逃げちゃったけれど。

「…はぁ…」

溜め息が思わず漏れて、ひとり苦笑う。幸せで溜め息を吐くなんて、いつぶりのことだろう。

こんな毎日がずっと続けばいいのに、と贅沢にも願ってしまう。仮初めの感情かもしれなくても、今の僕には甘い、甘い罰だ。きっとこの味に慣れきってしまったら、取り上げられた時こそが本当の地獄なんだろう。

「大概、僕も都合がいい…」

呟いた独白は、水量の増えた川の流れに呑まれて溶けていく。ガードレールの下で、濃緑色に嵩を増したそこをじっと眺める。いつもは透明に澄んでいて、敷き詰められた小石だって分かるくらいなのに、一度雨が降って溢れ返れば何が混じっていても分かりはしないのだ。

(「久馬を想うだけなら、…僕の勝手じゃなかろうか、」)

彼と別れて家に逃げ帰ってからこちら、矮小なこころを占めている考えが、それだった。中途半端に開き直り、さらに都合のいい所だけ糸任せにしている、情けない言い訳だった。

(「久馬が、僕を好きになるわけがないんだから」)

だから迷惑の掛かりようなんて何もないのだ。
糸がいずれ消えるのならそれまでだし、僕が彼に想う好意が紛い物である可能性は相変わらずだ。そもそも、本物だったとしたって、到底叶わない片思いじゃないか。
見た目も中身もぱっとしない、しかも…同性のクラスメイトを恋愛対象として見る筈がない。男を好きになったのは、僕だって久馬が初めてだし。

彼が僕の相手をしているのは単に一時的な興味故のことだ。校外研修が終われば、全部元に戻る。
そうしたら、この僥倖にも似た出来事を、マッチの一本一本を手際良く消費するみたいに、幸せな過去として思い返せばいい。

「…っふ、…」

――…馬鹿げてる。

胸が息苦しく詰まる――慣れつつある感覚を、深く呼吸することで騙しながら、歩いた。
自分のことだから、本当はよく分かっている。一度知ってしまったら、親しげに与えられた笑顔や、僕の名前を呼ぶ声を忘れることなんて出来ない。そして、記憶だけで満足するほど悟ってもいない。触れれば触れただけ、どんどん浅ましく、欲深になる。
…最低だ。
終わりの日を想像すると心底ぞっとなる。ああ、でも、

(「これが、ある限りは…」)

見下ろした足首の縄は目的地へ赤々と延びている。ある意味では久馬と僕の繋がりを保証し、約束してくれているもの。
そう考えることは、最大の禁忌であり、悪そのものだったのに。あれほど呪わしく思っていた縄に縋る自分が、気持ち悪くて仕方がない。

僕は憎悪する。
赤い糸じゃなくて―――自分自身を。



正門を過ぎた頃には、出掛けのふわふわした足取りは、枷を付けた科人のそれに変わっていた。それでも、体は習慣で教室を目指す。
こんな雨上がりの朝なら、流石の運動部も屋外練習を控えるだろう。校庭にいる人影はまばらで、案の定、どこの部活も朝練をしている様子はなかった。
早く教室に行って、机に突っ伏してしまいたい。くだらない堂々巡りの思考に、いつも通り蓋をする為に、だ。



「…え…?」



それは予兆もなく訪れた。いや、感覚そのものが、兆しだったのかもしれない。

アスファルトに擦り付けていた革靴が、ふうっと軽くなる。段差に足を取られたのかと泡を喰った。

次の瞬間。

僕は分かってしまった。導かれるようにして、振り向く。校舎じゃなく、点々と水が溜まったグラウンドの方を。首は自由に動いたけど、脚は膠で貼りつけられたみたいにびくとも動かない。身体が―――本能は理解しているんだ。
渦巻く感情、恐怖、羞恥、動揺――すべてを上回る歓喜に僕は立ちすくんだ。

「月下っ!」

久馬が、来る。




息急いて駆けてきた彼は、暑苦しいと言わんばかりにベンチコートの前を開いた。手で扇を作りばたばたと扇いでいる。

「よ、…よお」
「…おはよう」

僕の立つ舗装路と彼のいるグラウンドは土手のように高低差があった。久馬を見下ろす新鮮さにどきどきとしながらも、僕は必死に情動を押し殺そうとしていた。

「……」
「……」

挨拶をしたきり、久馬は黙り込んでしまった。彼からすれば珍しいことだ。…昨日、逃げてしまったから怒っているのだろうか。怒ってたら、声なんて掛けないで無視しそうなものだけど。
取り敢えず謝るべきかもしれない、と、ぎこちなく口脣を動かそうとした、そのとき。

「げ、…元気か…?」
「…え?」
「だ、だから、元気かって聞いてんだよ!」

久馬は傾斜に生えた芝生を睨み付けたまま、言った。むしろ叫んだ、と表現しても差し支えなかったかもしれない。割と大きな声だったからだ。

「……」

勢いに気圧されて首肯すると、彼も「よし」と頷いた。

「…昨日。なんか顔赤かったから。熱でもあったんじゃねーかと思ってさ」
「あれは…」

久馬にいきなり腕を回されたのでビビった、とは流石に言えなかった。しかし代わりにうまい弁明が出来る僕ではない。結局、「そういうわけじゃ…」と口ごもってしまった。

「なら、いーけどさ」
「…あ、うん…」
「……」
「……」

また、沈黙。
なんだか、うまくいかない。昨日はあんなに自然に話せていたのに。久馬も同じように考えているのか、湿った砂利を苛々と運動靴の先でほじくり返している。

(「…久馬、なんか、変だ…」)

あの放課後、笑っていた彼は遠慮なんてなくて、明け透けで、でも、その傲慢さに嫌味はなくて、眩しいくらいだったのに。今日の彼は後ろめたそうで――何かを取り繕おうとして見える。

まさか。

「――…久馬っ!」
「な、なんだよ?!」

重い通学鞄にも構わず、よろけながら芝の生えた坂を滑り降りる。濡れた草に勢いがついて、久馬が仰け反るほどのスピードで彼へ突っ込んでしまった!

「おま…っ、いきなり何なんだ!」
「いいから!」

たたらを踏む彼に怒鳴り返し、草地に鞄を放る。
息を大きく吸って、吐いて。意を決してから、まずは久馬の左足首を見た。糸は―――ついてる。特に物凄く変わった感じはない。強いて言えば初めて見たときより赤いかな、くらい。

次に久馬だ。当たり前だけど、僕の剣幕に驚いている。平生は不敵に笑みを浮かべている口元が、天敵にでも遭遇したみたいに強張っていた。大きな目も、瞬きを忘れたように凍り付いている。
…吃驚してはいるけれど、こうして見ると特段の変化は無いような気がする。

「……おい、…」
「久馬」
「なん、だよ」

忙しなく動く彼の眼球に、はぁはぁと息を切らす自分の姿が映っていた。我ながら狂気染みている。でも、そんなこと、今はどうでもいい。
早く―――早く、確かめなくては!


「…僕のこと、…どう思ってる?」


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