真昼の月



(月下)


「ええっ…ちょ、えええっ?!」

池の鯉みたいにはくはくと呼吸を浅くしながら、僕は悲鳴を上げた。久馬はそんな醜態を見て、また嬉しそうに笑う。何が楽しいのか謎なくらいに晴れやかに。

「おま、動揺し過ぎ。呼吸困難でひっくり返ったりとか、勘弁しろよな」

そう言う彼から目を逸らしたいのだけど、本能は無情だ。きらきらひかる双眸だとか、笑声を圧し殺す度、そこだけ別の生き物みたいに動く喉仏なんかを懸命に、記憶しようとする。とても心臓に悪い。でも、逸らせない。

「だ、…だだだって」
「だだだ?」
「だ…違うよ!、昨日あんなに白柳に怒って…っ」
「あー、あれとこれとは話が別だな」と久馬。「結論から言えばオレが決めたんだからいーんだよ」
「そ、そんなぁ…」

よく分からない理屈を捏ねられて、僕はすっかり困ってしまった。久馬がいいって言うなら、いいなんて…、

――いいわけあるかっ!

「駄目だよ久馬っ」
「あー?」

例え彼が良くてもこちらの都合が許さないんだ!

仮にこの現象が赤い糸のちからだとする。
僕はおそらく…多分、久馬が好きだ。それすらも強制力かもしれない。ただ、嘘か本当かの確証関係なしに、彼に幻滅されたら辛い。物凄く苦しい。さっき厭と言うほど分かってしまった。ちっとも嬉しかないけど、痛みだけは間違いなく本物だった。
次に久馬だ。僕はそっと――、ほんの僅かな間だけ足元を見てみる。

「…何が駄目だってんだよ」

またしても怒りを再燃しつつある久馬の(こわい)、くるくると捲ってあるスラックスの裾。左足に赤い縄がばっちり結わえられていた。僕と彼の間に蛇みたいなとぐろを巻いている。

この糸がどう影響を及ぼすのかは分からないままだ。うまくいっていた例もあれば――昔見たような、ひとりは片思い、相手は股掛け、なんてカップルの例もある。
ただ、もし僕の感情に糸の働きかけがあるのなら、久馬の感情が侵される時も来るかもしれない。
整った顔を窺った。彼は傲岸に腕組みをし、不可解も露に眉を跳ね上げ、こちらを見下ろしている。
このひとのこころが、縄に引き摺られて僕だけを見る。

そうなったら、

(「ぼく、は…」)

暗い愉悦が厭らしく口を開いて待っている――

「お…、おい月下、お前、顔真っ白…」
「キューマ!」
「…!」
「おわっ、ハコ?!」

ばたばた、と慌ただしい足音がして、僕は胸のあたりを押さえつけながら、複数のものに思えるそれが、廊下を渡ってくる方向を見た。ブレザー姿の男子生徒と、少し離れた後からセーラーの女子が駆けてくる。白柳と、見知らぬ普通科の女の子だった。

久馬は何をしようとしたのか、上げていた手をぱたりと落とした。僕と視線が遭った途端、ばつが悪そうに目を眇めて、それから、走ってくる親友へ向き直った。
片や、左からは深い溜め息が聞こえる。きれいに忘れていたんだけど、いまひとりこの場に居た人物――埜村が広い両肩から力を抜いて「助かった」と呟いたところだった。呼び出したのは僕なので、済まないような、展開を反芻してしまうとそうでもないような、…複雑な気分だ。

「どうしたんだよ、お前」
「ど…どうしたんだよじゃねぇよ、この馬鹿っ」と白柳は罵る。走って来たから当然だけど、喋る合間の息はとても荒い。
「お前がW組に殴り込み掛けて、誰かをボコボコにしてるってW組のやつがご注進に来たんだよ!苛ついてんのはよく分かったから落ち着きなさいよ…!」

彼はそこでようやく僕に気付いたらしく、さらにこめかみにを引き攣らせた。
白柳の勢いを虚脱したまま眺めていたら、眼鏡を掛けた秀麗な顔がばっと目の前に来た。

「…ひゃっ?!」
「月下、大丈夫?怪我なんかしてない?」

肩とか腕とかをぺたぺたっと触られる。素頓狂な叫び声を上げたところで、久馬が「馬鹿はてめぇだ」と言い返した。

「W組には殴り込んでねーし、こいつにも何にもしてねーよ」
「…はぁ?」
「勘違いだろ、そのチクりに行った奴のさ」

どこか、拗ねた子どもみたいな態度だったけど、久馬の物言いはしっかりしていた。少なくとも嘘をついているようには見えない。
白柳もそれで落ち着いたらしい。まったくもう、とぼやきながら、次に、立ち尽くしている大柄な影に目を留めた。

「あれ埜村、何してんの」
「お…おお、」
「埜村は僕が呼び出したんだ、」
「…ふぅん」と白柳。
「で、でも…話はもう終わった。…そう、だよね。埜村」
「――ああ…」

言外に取引はしないことをもう一度滲ませると、埜村はのっそりと頷いた。頼みを持ち掛けたのは僕だけど、彼の願いはどうしたって聞けない。
硬く、鍛えられた体が脇を通り過ぎていく。知らない振りをするのはあまりに卑怯な気がして、口をぎゅっと引き結んだまま、立ち去る埜村を見送る。

「――…出し惜しみやがって」
「…っ?!」

低く投げつけられた言葉。底光りする目。それらをしっかり正面から喰らって立ち眩みそうになる。
でも、仕方がない。これは当然の報いなんだから。

「何言ってんだか…負け犬みてぇ」
(「え…」)

吐き捨てるように言ったのは、――なんと、白柳だった。僕と同じように、埜村の後ろ姿を眺めている。シャープな印象の横顔からはおよそ表情の類いが無く、ひたすらに酷薄さだけが漂う。

「さて、」

それが僕に向いた瞬間、嘘みたいにかき消えてしまった。にっこり微笑んだ彼は、いつも声を掛けてくれる親切な男の顔をしていた。

「何事も無かったようでまずは重畳」
「う…うん、ありがとう…」
「どういたしまして。…そうそう、これ。ホームルームの時から気になってたんだよなぁ」

ちょっと前のデジャヴみたいだ。ジャケットに包まれた白柳の腕がするり、と僕の首を滑る。

「あ…」
「なに?イメチェン?前髪も少し上がってるしさ」

彼は、だらしなく開いた襟元を指先でちょいちょいと弄んでいる。何のことだろう。

「こーこ。…らしくないじゃん」
「えっ、あ、ああっ」

きれいなカーブを描く爪先が、首の表皮を掠める度にぞわぞわとした。白柳は薄い笑みを浮かべて、釦を締めるような、ただ遊んでいるような動作を繰り返す。

「は…はこやなぎ…」
「うん?」
「くすぐった、い…」
「だってくすぐったくしてるんだもん」
「だもん、じゃねえ、変態!」
「ぶわっ」
「ひっあ!」

唐突に目の前にいたひとの頭が沈む。久馬の仕業だ。やぶ睨みで白柳に手刀を喰らわせている…。ぱっと見、容赦ない感じ。

「どさくさに紛れて何してんだてめぇはっ!見境無さすぎんだよ」
「………」
「涎目元に付けて上目遣いすんな!気持ち悪ィ。…おい、月下ァ!」
「はっ…はいっ!」
「お前もひゃーひゃー言ってねぇでしっかり厭がれ!」
「…えあ、…はい。ごめんなさい…」

条件反射でつい謝る。久馬は満足そうにふん、と鼻息をつくと「よし」と言った。すぐ詫び言を口にするのは僕の悪い癖で、よく新蒔にもたしなめられていたのだけど、久馬相手だとさらに助長されそうな気がする…。

「…見境、ねぇ」
「……?」
「つけてるつもりなんだけどねえ」

ノーと言える日本人になれ、とか何とかまだ説教をしている久馬に諾々と相槌を打っていたら、僕の耳朶を静謐な声が撫ぜた。

そっと横目で盗み見た白柳の横顔はうつくしく、―――そしてやはり表情を欠いていた。


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