決着



(月下)


忽然と姿を現したそのひとを、僕は食い入るように見つめた。映画や小説にあるような、幻とか白昼夢みたいなものは、現実じゃなかなかお目にかかれない。例え心の底から望んでいても、僕たちに許されているのはせいぜい夢想することくらいだ。
それが定説だと思っていたのに、今、僕の眼前には久馬が立っている。憧れて、避けて、…そうすることで、尚のこと意識に染み付いてしまう相手が。

「何か呼ばれたみたいじゃね?オレ」

言いながら、革靴が一歩、また一歩と近寄ってくる。僕を捕まえていた埜村の手がぱっと離れた。

大した時間じゃなかった筈が、掴まれていたそこはくびられたように傷んだ。見れば膚は赤く色を変えている。
元来僕はあまり膚が強くないらしく、打ち身や圧迫ですぐに赤らんだり青く腫れたりする。痕が残ること自体はままあることだのに、同級生の手指を象ったそれが不思議なくらい気持ち悪くて、反射的に幾度も擦る。輪は余計に赤くなる一方だ。そして、硬い足音は伸びる僕の影を踏めるところにあった。

「埜村ぁ。一体何の話よ」
「べ…別にお前にゃ関係ねーよ」

焦ったようにクラスメイトは言い、さらに僕と久馬から離れる。彼が後退さっているのは窓の方向で、客観視すると追い詰められているみたいだった。久馬は追求の手を止めない。埜村が逃げるのに合わせて、久馬はどんどん進む。もう隣までやって来てしまった。

(「…あれ…?」)

にやっと浮かべられた笑みを、その整った横顔をただただ見ている内、先程埜村に詰め寄られていた時とは別種の恐れが僕を縛った。
鋭利な牙に似た攻撃性が、びりびりと体の表皮を打つ。埜村が顔をしかめた。大きめのパーツで構成された顔が、ブロックを崩したみたいにくちゃりと歪む。久馬はそれを目にして一層笑みを濃くした。

この間、白柳と喋っていた――生徒会室で感じたものとよく似ている。

――…久馬は怒っていた。

「関係なくはねぇだろ?オレの名前、ばっちり聞こえてたぜ」と久馬は言った。
いつもと変わらない、軽い口調は、ここにおいては不似合いでしかない。

「…ば、ばっちりって…な、なんでこんな所に居るんだよ、お前、久馬」
「通りすがりだ」
「こっちは突き当たりじゃねえか。どうやって通りすがるんだよ」そして、思い付いたように付け足す。「…ま…さか、つけて来たんじゃねえだろうな…」

苦し紛れの埜村の糾弾は、まあ、確かにその通りだった。流石に尾行というのは考え過ぎだ、やったところで久馬に何の益もない。

しかし、緊迫した空気の隅で僕も首を傾げていた。
どうしてこのタイミングで彼が現れるんだ―――、


(「…ま、さか…」)


これも糸の強制力、とか言わないで欲しい。
久馬から離れようとする僕の動きを、足首に絡まっている「これ」が補正しようとしているだなんて、そんな馬鹿なことが。
いや、果たして馬鹿なことなのか?からくりを知らなければ偶然で済むことも、蓋を開いて初めて、因果で繋がっているのだと分かる―――それが、今の僕じゃないか。

「……うっ…」

過去をほじくり返されて混乱していたさっきの方が、もしかしたらマシかもしれない。水際で踏み留まっていた涙がぼろぼろっと落ちていった。膝なんかもう砕けている。立っているのがやっとだ。
どんなに逃げても追いかけてくる。こちらの決意や工作をまるで無いように。蟷螂の斧に自分を喩えたことを思いだし、ぞっとした。

まさしく、そのものだ。



「チッ」

ほど近いところで舌打ち。水中で目を開けているみたいなおぼつかなさでそちらを見ると、強い視線を湛えた久馬が呆れ顔で見下ろしていた。

「…また、泣く…」
「え、」
「おー、埜村よお」

たった今掛けられた声は、僕に向けてのものだったのだろうか?慌てて体格の良い同級生を見たけれど、埜村に泣いた風は無かった。…若干涙目ではあったが。

「オレが偶然来たかどうかなんて、そんなん大した問題じゃねえだろ、あぁ?それよかさぁ、…関係ねーかどうかは置いといて、オレのこと呼んだのは否定しねぇってことだな?」
「あ、ああ…」と埜村は呻くように首肯した。「今、月下と校研の話、しててさ。あっ、浅草に行くのは、俺たちの班と久馬んとこだけだな…って」
「へーえ。そうなんだ。お前んとこって…香宮とかだろ」
「あと、阿代と迫。四人だ」
「そっか」

旋回した首が再び僕の方を向く。今度は、彼は笑っていなかった。冷たい目だ。

(「……ばれた…、久馬に…」)

聡い彼のことだ、僕と埜村の姿を見咎めたときから何の話をしているのか、薄々勘づいていただろう。
会話が聞こえていたのなら、余計にフォローのしようがない。
僕は無性に弁解をしたくなる。こうべを垂れて、すべてを打ち明けて、彼のために嘘を吐いたのだと言い訳をしたい。そんなこと、何にもならない上に信じてすら貰えないだろう―――それでも。

このひとに軽蔑されたくない。すきなひとに、蔑まれるのは、…辛い。

「……っ、……」

声帯が切り取られたように、すべての声が消えた。久馬は、瘧(おこり)のように震え始めた僕をしばらく眺めてから「やれやれ」と呟いた。

「…なるほどなぁ。じゃ、やっぱあれ、月下の嘘だったんだ」
「…な、なんのことだ?」と埜村。
「てめぇには『関係ねぇ』。…だろ?埜村クン」

ぴしゃり、と久馬は切り捨てた。同級生の方を見もしなかった。

「オレは月下と話してんだ。なあ、月下」
「……」
「お前さ、ハコ――白柳のこと嫌いか?」
「……いや、」
「イヤ?」
「う、ううん…嫌いじゃ、ない」
「そりゃ結構」と不機嫌に彼は言った。台詞と声が全然噛み合っていない。
「が、目下お前は無所属なわけだ」
「……うん」
「じゃ話早いわ。月下、ハコと組め」
「え…」
「待てよ久馬!」

埜村が耐えかねたように口を挟んで来る。彼の大きな身体が僕の視界を覆いかけ、と同時に、先程の恐怖が生々しく甦ってきた。
吐き気がする…!

どん。

「黙れっつってんだろ」

鈍い音の出元は、二年W組の壁であり、久馬の拳だった。殴りつけられた壁が振動して見える――のは多分錯覚だ、と思いたい。
彼は登場した時と同じように眩しいくらいの笑顔だ。
……こわい。

「黙らねーとその口にラグビーボール突っ込んで、縫うぜ?」

埜村がしっかりと押し黙ったのを確認して、久馬は再び僕へと振り向く。

「ってことで、オレは外れるからハコと月下で班作れ。剣爺のお墨付きだから文句も出ないだろ」
「えっ…?!」

久馬が抜ける?どうして?

「だ…駄目だ!」
「なんで。なにが。」

半眼で拳固を壁に突き立てたまま聞き返してくる彼へ、僕は必死で反論する。

「だって…!白柳と久馬が元々同じ班なのに、僕が入ってぶち壊しにしちゃうなんて、駄目だ!」
「あー、成る程なあ…。だから嘘吐いたんだ、お前」
「…う、うん…」

真実じゃないけれど事実の一部ではある。僕は思わず頷いた。

「…そんなの、二人に迷惑じゃないか」
「だよなあ、」
「だから、僕は久馬の班には行けない。…一人で行くよ、剣菱先生にはちゃんと話すから」

埜村をちらりと見れば、彼は僅かに身じろいで、何かを言おうとし―――止めた。僕は目を逸らす。埜村の取引に乗ることだけは絶対にしない。自分の薄弱さはよく分かっている、それでも絶対に、だ。

「月下」
「……」
「ハコやオレがばらばらになんなくて済む、お前も剣爺に謝らないでいい、…勿論そこのガチムチとつるまないで決着する方法が一つだけあるぜ」
「ええ?!」

ようやく拳を開いた久馬は、手首をぷらぷらと解しながら言う。
そんな都合のいい方法があったろうか、と思考回路を叱咤したけれど、…思い付かない。

「どうだ、乗るか?」

そこを急き立てるように彼の声。苛々と指の背中を噛んでもヒントは欠片もでやしなかった。


「わ、わかった」

僕は少し―――心情的には大分、考えた後で答えた。

「…乗るよ」


すると、久馬は目標のタイムを走りきったときみたく、全開の笑顔で笑ったのだ。
悪戯がうまくいった幼い子のようにも、年相応の危うく青年らしい艶やかな表情にも思えるあの容貌で。

「じゃ、決まりだな。

……ようこそ、久馬班へ」


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