アンビエント
(月下)
ゆさゆさ。
ゆらゆら。
「…い、おいっ、大丈夫か?!」
意識か精神か、とにかく色んなことを感じる器官を、纏めてコインランドリーに放り込まれてしまったみたいだ。酷い酩酊感。目を瞑っているはずなのに、明るいひかりの破片が眼裏で乱舞している。赤や銀や緑、メタリックな色彩の粒が視神経を傷つけていくイメージ。
弱々と瞼を持ち上げる。精悍な―――久馬とはまた違う、男らしい顔立ちが覗き込んでいた。
「おい大丈夫か、サカシタ。ちゃんと聞こえてるか」
「…ああ、うん。…ごめん」
「平気なら別にいいよ」と会長は言った。「立ち眩みか?とにかく、椅子に座れ。楽にするんだ」
今度は命令形だった。現状を確認すると、僕は壁に背を擦り付けながら崩れ落ちていて、会長は床に制服の膝を着き、下から様子を窺ってくれていたのだった。
立ち上がろうとしたら当然のように手が差し出される。僕は戸惑った。最近―――いや、もうずっと、自分の周囲から失われていたコミュニケーションに思えたから。素直に応じればいいのか、遠慮すべきなのか、…どちらがベターな行動なのか。
きっと幼い子どもでも即断できることなんだろうに。
「…ほら、座るなら座れよ」
見かねたらしい高遠が、そこらの椅子をひとつ引き摺って来た。線病質な感(僕に言われたかないだろうが)のある彼はいっそう苛々して見えた。物凄く済まない気分になる。会議に乗り込んで中座させたのは久馬だけれど、そもそもの原因は僕だ。僕がもっとはっきり、強固に厭だと言っていれば、剣菱先生だって話を止めていたかもしれない。赤い糸のちからが最終的にどう働くかは置いて、これは姿勢の問題だ。
「…いや、僕は…」
赤い糸。
自分自身の感情ですら疑わなくちゃいけないなんて、いつかの僕はやはり愚かだったのだ。これは聖別されたちからなんかじゃない。むしろ呪いに等しい。
「ぼくは、もう行かなくちゃ…」
ひんやりとした床の感触は硬く、現実はここだ、と教えてくれているようだ。当たり前の存在が今は有難いほど安心感を与えてくれていた。
触れあいそうなほどに会長と僕とは近く、彼の足首の縄が厭でも目に入る。それから、僕の分のも。試しに手を伸ばす。確かに見えるのに、いつもと同じように感触は透けて、ひたりと着地したのはまたしても、床だ。
「…立てないのか?ちっとも大丈夫じゃないだろう」
頭上から穏やかな声が降ってきた。あ、と思った時には大きな掌が額を覆い、伝い落ちるように頬へと移る―――、
「…かい、ちょ…う?」
「…ふぅん、熱はないみたいだな。どちらかと言うと白いもんな、顔」
小児科の先生がするみたいな仕草だった。突然の接触に吃驚しかけて、
「月下?!」
――…しそこねた。
すらりと扉が開き、流れるような動作で、部屋に入ってきたのは白柳。咄嗟に彼の背後を見たけれど久馬は居ない。
「あいつはまだだよ」
白柳は至って朗らかに喋った。二人が出ていった時の久馬の剣幕たるや相当なものだったので、却って不自然に思ってしまう。部屋に入るなり僕を呼んだ声には、咎めるような色があったのに、それすらも綺麗に払拭されていた。
眼鏡の同級生がこちらへ近づくと、会長は場を譲るように立ち上がった。闖入者の僕を案じてくれた、せめて礼だけでも言おうと、口を開き掛けたとき、
目の前が急にぶれた。
「よっ」
「う、あっ!?」
肩口へ埋めるみたいにあったのは白柳の、細く尖った顎だった。どうして、と訝る暇もない。腰を抱き抱えるように彼の腕が回り、僕はそのまま持ち上げられてしまったのだ。
「…んー、なんかもうちょっと肉が欲しいところだよなあ」
白柳が呟いた台詞の内容、いや、彼が口をきいたことすら意識の枠外だった。自分の薄い胸へどく、どく、と他人の心音が送り込まれてくる。
これはなんだ?彼は何をしている?
「不謹慎な!」
空気を切り裂く叱責を発したのは、やはりというか、高遠だ。シルバーフレームの眼鏡を乱雑に押し上げこちらを睨んでいる。彼の手前には会長が居て、ひょいと両肩を竦めた。
彼らの様子がようやく機能を始めた視界に飛び込んでくる。僕は弾かれたように白柳の胸を突いた。首の根が熱い。絶対赤くなってる!
「…ご、ごめん!」
このシチュエーションにあたって、僕の謝罪はどれくらい必要なのかもうさっぱりだ。それでもとにかく謝ってしまう。
「あーもー、もう少しで『分かりそう』だったのに…」と白柳。
「TPOを考えてくれ白柳。ここは会室だぜ」
会長の嘆息に心から同意する。でも、残念ながら執行部会計の暴走はそれだけに留まらなかったのだ。
彼の目付きが何かを気に留めた風になり、一度離れた腕が再び僕に触れてくる。
「…ひ…っ、」
「そんなあからさまに怯えた声出さんでよ」とクラスメイトは苦笑う。「スラックス、埃だらけじゃん。払うだけだから」
言うなり、白柳は腰を折って僕の膝頭や脛のあたりを丁寧にはたきだした。ぱたぱたと身体じゅうに軽い音が響く。くすぐったいような、むず痒いような不思議な感覚だった。幼い頃、親に髪の毛を拭いて貰ったのに少し似ている。
さっきみたいに突き飛ばしてでも止めさせればいいのに、その感触を失いがたく思う気持ちもあって、制止のタイミングを逸してしまった。
彼の言う通り、フレンチグレーのスラックスは砂や綿埃で白っぽくなっている。生徒会室は、活気はあるけれど掃除の手はあまり行き届いていないらしい。
でも、制服の汚れだったら、
「…白柳の方が…埃、ついてる」
前時代的な格好だとは思うけれど、彼はいつもきれいに服を着こなしている。特進科の真っ黒いジャケットと生地の良さそうな立ち襟のシャツ、アイロンのきちんと掛かったスラックス。それが、今目の前にいる彼に限って、頭から石灰でも被ったみたいになっているんだ。さっきまでは隙なんて爪の先ほどもない、久馬の隣に立つに足る姿だったのに。
至るところ粉っぽくなっている自分にようやっと気付いたらしく、白柳はあーあ台無しだ、とぼやきながら、肩や胸の目立つところをはたき出した。その動きがぴたりと止まる。
「……?」
正面に立つ僕へと、彼は長い両腕をすうと突き出した。糸目はさらに細くなり、口元は柔らかくほころんだ。何かを受け入れるような仕草を僕はぽかんとなって眺めていた。
「じゃあさぁ、俺のもやってよ」
「っ、えっ?」
「お返しだと思って、ほら」
弄うようにも案外と素で言っているようにも見えて、僕はひたすら「えっえっ」を繰り返す。そうこうしている内に眼鏡のクラスメイトはどんどんと寄ってきてしまう。彼のレンズに映る僕はかなりの間抜け面で、恥ずかしいと思いつつも、ほんとうに泣き出したいくらいだ。
白柳にはいつも親切にして貰っている。…さっきもだ。久馬のことがあって白柳もまとめて避けているから、彼がどんなに気を遣ってくれても、こちらはすげない態度を繰り返す。僕にとって幾多有る罪悪感の、ひとつだ。何回に一度はきちんと応じた方がいいかもしれない。…例えば、今日くらいは。
「えっとじゃあ、その、腕、降ろしてもらって…」
「はいはい」
諾々と言うことを聞く彼はとっても楽しそうだ。嘲りや蔑みの笑みじゃない、ふつうの笑顔を向けられると別の意味で泣きたくなる。白柳の足下を見ないように努めつつ、僕は彼の真似をして手を動かした。
この時点で会長が許可した十五分は終わりかけていて、他の役員たちは手前のドアからばらばらと帰ってきていた。勿論、彼らは会計とどこかの一般生徒の遣り取りを不思議そうに眺めていたわけだ。
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