黒澤備の場合β



台所に差し掛かったところで、奇妙な叫び声と理解しがたい姿勢のまま踏ん張っている皆川に遭遇した。何が楽しいのか、斎藤を抱えてスクワットのようなことをしている。
人の体で遊ぶものじゃない。こいつも大概、林さんたちの性格が伝染し始めているように思う。
食べたものの分は働け、と言いながら、落下しかけている小柄な体躯を支える。別に菓子のひとつやふたつ、目くじらを立てるつもりはないが、こんなさほどの体重もない人間を抱えきれないでどうする。

「…いや、普通は結構しんどいと思うけどなあ…」
「お前は根性がなさ過ぎる」
「…前々から思ってたけど、備も見目先輩みたいな根性論者なのか?」
「違う」

即座に否定した。あの人が実際考えていることなんて、俺にはよく分からない。
余程堪えたのか、唸りながら上腕筋の辺りをさすっている皆川に、脇に挟んだ教科書類を取らせた。楽になった腕で抱え直す。
それにしてもこの男、本当に軽い。きちんと食べているのだろうか。

「根性なんつうのは出す前に乗り切れれば、必要ねえんだよ…って、生物か」
「ああ」
「何か分からないとこあんの?」
「当座は問題ない、と思う」
「ふうん」

内容を反芻しているのか、彼は小さな頷きを繰り返しながらページを捲っている。

俺はすやすやと眠り続ける斎藤へと視線を落とす。
薄い胸の上下が無ければ、生きているのか、と思うほどに彼は寝込んでいた。鼻や口の辺りに手を翳したい衝動に駆られてしまう。

以前、「死と眠りにある者にのみが安らかだ」と言った奴が居た。その考え方には否定をするが、最近とみに消耗している様子の斎藤と、目の前で双眸を閉ざしている姿を重ね合わせる内に、何か、分からなくなってきた。

「…よく、寝ているな」
「ああっ、そうだ!俺、大江に起こせって言われてたんだったよ!」

突然に叫んだ皆川が、俺ごと、屈折した体を揺らしてきた。

「斗与、おい、斗与起きろ!」
「ん…、あ、れ。みな?」

蛍光灯の輪がゆっくりと見開かれる瞳に映り込んでいる。きれいな金環食が浮かび上がり、俺はその様を食い入るように眺めた。点睛を施したかのように、斎藤に生気が戻る。

「ユキ……、じゃない、え…?くろさわ…?」

こんな時は一体どう返すべきなのだろうか。

少し逡巡した後で、「おはよう」と間抜けたことを言ってしまった。声を掛けた傍から羞恥で、耳の先が熱くなるのが分かる。皆川もぎょっとした顔でこちらを見ている。

「―――おはよう」

なんか、へんなゆめみた。舌足らずな口調で呟いた斎藤に、俺は多分、笑ったのだ、と思う。





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