黒澤備の場合α



【黒澤備の場合】


災禍を黙って待つつもりはない。内容が分かっているなら尚更だった。菓子を食い散らかした皆川の捨て台詞が、終わったか終わらぬか―――立ち上がり、耳を澄ませた。

「………」

特に、何か騒がしいものが近寄ってくる気配はない。

冬の大江家は思っていたよりも冷えた。下宿生たちは余程の用事が出なければ氷のように張った廊下へ出たりはしない。まるで巣籠もり中の動物のようだった。
机の上には生物の教科書と、ノート、用語集。筆記具を皮のペンケースへ突っ込み、冊子の類は裸のまま掴んだ。

皆川は階下へ降りたきりのようだ。あいつ宛の電話、だったのだろうか。そこまで考えを巡らせて、自分の携帯が死んだままであったことを思い出した。が、別に構いはしない。捨て置くことにする。
必要なものは全て持った。後は消灯時間までの数時間、退避場所を捜せばいい。在室だとばれたら、あの双子のことだ、応答があるまで扉を殴り続けるに決まっている。

以前、別の用事で無視をした時、部屋の扉を外されたことがあった。睨んだら黙って戻していたが、そうそう何度もして欲しいことではない。

「……ふ…」

皆川め、余計なことを言ってくれたものだ。しかもわざわざ報告をしに来た辺り、悪事と分かっての所業だろう。
逃げろ、と忠告をした当人の所へ押し掛けるのも癪だ。「そら見たことか」と笑い転げる様が容易に想像出来る。試験勉強をしない主義なのは結構至極だが、人の勉強時間まで侵すのはやめてほしい。

嘆息しながらも、細心の注意を払って外へ出た。スリッパ越しでも木床の発する冷気が染みいった。試しに吐いた息は白く、古ぼけた電灯カバーに照らされて溶けていく。

「……」

それを眺めながら、ふと、今年は全くコンサートに行っていないことを思いだした。引っ越したのもある、慣れない高校1年目、というのも然りだ。ただ、12月の下旬は良いコンサートが目白押しだから、少し遠出をしてでも行くべきだ、と思った。

―――斎藤は、クラシックを聴くだろうか?

脳裏に過ぎった友人の名に、避難先が収斂して、決まった。
向かいの部屋で、且つ、林さんたちが気に入っている人間の所に行ったところで、難を逃れる名目が叶うとは考えられない。けれど、斎藤も帰る場所が別にある身だ、冬期休暇はおそらく下宿を空けるだろう。冬の予定を聞き出すのはちっとも不自然なことではない。

…外出に誘うことも。

定期試験を控えた夜に、わざわざ部屋を訪ってすることか、と冷静な自分が呟いた。

(「まったく、その通りだ」)

首肯をしつつ、隣の部屋の前へ立つ。何にしても用事が出来たのだから、仕様がない。
思考のひとつひとつに言い訳をくれながら、うっすらと空けられた狭間が暗いことを確認した。
不在だ。そして不用心だ。
つい、扉を完全に閉め切って、殊の外、音が響いたのに寒気が起きた。寝た子を起こしたか、と思わず耳をそばだてる。
聞こえる音は――――、

人の声だ。

「…うん、…だから、今日はばあちゃんは高浜に泊まりだってば。休みには戻ると思うけれど、斗与がどうするかも聴いてないから。だって、おじさんと戴斗さんがこっち来るかもしれないでしょ」

大江だ。電話は、彼宛だったのか。
では皆川は何処へ?
大江が下に居るのなら、斎藤も下に居るのかもしれない。母屋の2階に目を凝らしたが、廊下の奥は人の気配が絶えていた。左が大江の部屋、右は大家の部屋だが、どちらも電灯の明かりすら見えない。
階段を降りてすぐの玄関では、案の定、しゃがみ込んだ大江が電話に向かって騒いでいた。彼にしては珍しい。どうやら冬の帰省のことで揉めているらしかった。12月の3週には終業式だから、そう日は残されていない。自分もあまり実家に帰りたくないので、彼の気持ちは何となく分かる。

「―――あ、れ?黒澤君」
「斎藤は、居るか」

立ち尽くす俺に気付いたようで、発話部分を掌で押さえ、友人が顔を上げた。手短に用件を言うと、再び受話器を頭と肩の間に挟み込みながら、指で食堂の方を示された。
…どうやらその先の、母屋の居間にいるらしい。大家と斎藤とは元々の知り合いらしいから、そうした家族ぐるみの付き合いもできるのだろう。
目礼をして議論を再開させた彼を後に、出る。納得できる結論が出ればいいのだが。





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