(5)




雨上がりの、光の溢れる部屋で笑う、そのひとの顔は既に朧だ。忘却は既に始まり、思い出せる特徴も記号でしかない。引替のようにして忘れるだろう、と続けられた予言の通りだった。
突然に現れて、人を押し倒して、まともに笑ったのは「必要なときが来たら忘れる」と言った、その瞬間だけだった。心底嬉しそうな笑顔だったことは、記憶にある。

「何というか、…変わったひとだな…。つうか、本当にそれ女なのかよ」
「多分、」思いついて、付け足す。「…もし違うのなら、俺は童貞だ」
「っぶっは」
「…どうしたんだ」
「…な、んか、黒澤が言うと…中々の衝撃が…」

新蒔が言うなら理解は出来るけど、と噴出した口脣を擦りながら、斎藤は言う。その、新蒔、という男にも、自分にも、大した差違はない筈だと備は思った。

「でも黒澤って、あまりそういうこと、ほいほい言わない感じがするから」
「…言うべき時には、言う。そうしろと言われた」
「誰に」
「その、ひとに」

そのときはすぐにわかるわ。
よく見て、よく感じること。分からなかったら、触りなさい。
あなたには触れることのできるからだが、まだあるのだから。生きて、そこにある内に、確かめるの。
確信したら、後はもう放しては駄目。障害はすべて刎ねなさい。死と眠りが安らぎを連れてくる寸前まで、ひとはたたかういきものだから。
自分と、そのひとを繋ぐことに専心するの―――――置いて行かれないように、走るのよ。

「…カッサンドラみたいな女だ、と思う」
「カッサンドラ?」
「ギリシャの王女だ。不幸な予言ばかりをする呪いを掛けられた」
「…死んだひとのこと悪くいうつもりはないけど」
「ああ」
「お前の兄貴の趣味が謎」
「…俺も、そう思った」

じっとりと据わった目で言う斎藤は話始めのテンションが奇麗に失せていた。期待していたような色恋沙汰や猥談の類と相当に逸れた内容に脱力しているのだろう。それがまた、おかしくて堪らない。明言してやればまたきっと、怒る。

「初めての相手にしちゃあ随分と重い展開だな…。俺、正直に言うからな、今更だけど」
「好きにしろ」

半分、笑いを噛み潰しながら赦して遣ったら、斎藤はその小さな手で、備の膝をデニムの上からばしばしと叩いた。

「顔はまともに覚えてねえし、変なこと言うし、いきなり押し倒されるし、…よかったか、どうだか、わかんないって、結構ショックじゃねえの。なんでそんな平気な顔してんだよ、黒澤は」
「そういうものか、と思っていた。…出した、ということは、悪くはなかったんじゃないのか」
「……っ!だ、から、黒澤がそゆこと言うと生々しいんだって、は、恥ずかしいだろお!」

生々しい話をしているのだから、当然なのだが。そう思いながらまたしても赤くなってしまった彼の頬に掌を当てた。斎藤は余程頭に来ているのか、全く気にした風がない。

「俺なんて兄貴の彼女とそんなことなったら、半殺しどころじゃ済まない、絶対市中引き回しの上打ち首獄門だ…」

『あなたには触れることのできるからだが、まだあるのだから。生きて、そこにある内に、確かめるの』

「髪。…まだ、濡れてる」

擦れて、情けない声だ、と思った。喉の内側にある紅色の皮が狭窄し、張り付いてしまったかのようだ。緊張か、それとも――欲情しているのか。

「大体兄貴のプリン食っただけで1時間耐久擽り、とかだろ。拷問の域……って、あ、本当?濡れてんの?」
「…ああ」

斎藤の首に掛かったタオルを取り上げて、断りもなしに髪を拭いてみた。

「え?え?」
「そのままにしていればいい。…すぐに終わる」
「へ?黒澤…?」

予想通り、栗毛はやわらかで手触りが良い。両手を添えてくしゃくしゃと拭き続けていると、中から妙な声を上げていた斎藤も、やがて静かになった。タオルを取り去ると、複雑そうな面相が現れた。

「どうしたんだ」
「…なんか、今日、黒澤おかしくないか」
「まだ付き合いが浅いから、俺のことをよく知らないだけかもしれない」
「ほら、なんかそういう言い方とかさ…つか、ちょっと、こら」

ひゃ、と悲鳴が上がる。備の手は斎藤の足首にひたりと乗せられていた。踝から脹ら脛まで、指を伸ばせば優に届く。

「冷たい。…やはり、冷えた」
「あー、まあ、寒かないからヘーキ」
「…そうか」口脣は自動的に言葉を紡いだ。「――――よかった」
「……」
「……黒澤、まじでどうしたの」

この手の接触は、きっと、彼にとっては大江だけから与えられるものだ。
低く抑えた体勢から斎藤の顔を覗き込んだ。戸惑いと、驚き。嫌悪の情は無い。今はまだ。備は呟く。

「確かめてる」

(――――すぐに、わかるわ)

「…本当、だ」
「…?」



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