(4)




一時、躊躇したあと、ベッドから転がり落ちた友人は、手と膝の頭でカーペットを擦りながら近寄ってきた。

「―――け、けけけ、ごごごっご経験がお有りになるってこと、ですか?」

頬が薄紅に染まり、目が異様に輝いている。彼も年頃だ、その手の話には結構な興味があるらしい。頷いた備に爛々と光が増した。

「え、いつ?相手、誰?どど、どんなだった?こー、やっぱ気、気持ちかった…?」
「……は、はは」
「なんだよ!そんな笑うなよ!!」

思わずと言った態につい、笑いが漏れてしまう。何というか、可愛い。お菓子を餌に吊られた子どものようである。さらにむくれて頬まで丸く膨らます様が備の腹筋に拍車を掛けると、どうも分かっていないらしい。
床にぺたん、とじかに座ってしまった斎藤へと身体を向け直した。友人の顔は備の膝よりも下にある。跪いた格好の彼に諭し聴かせるように答えた。

「去年――中3の8月末だ。どうだったかは、正直覚えてない。あまり普通の状況じゃなかったから」

ちゅーさん、早過ぎだろ!と斎藤が叫ぶ。それから、直ぐに備の言葉を反芻したのか、眉根を寄せて聞き返してきた。

「普通の状況じゃない?」
「…多分、あれは兄の恋人だと思う」
「えっ、えっ、………っもぁっぷ」
「…だから、林さんたちが来るだろう…。落ち着け」

椅子から滑り降り、慌てて口を塞いだ。掌に見た目通りの、ふにゃりとした感触があった。備の大きな手では友人の鼻から顎までを容易く覆い隠してしまう。斎藤は忙しなく瞬きをし、泣きそうな顔で幾度も頷いた。
放してやると彼は堰が切れたように噎せた。色々な意味合いで涙目になっている模様だ。

「悪かった」
「うん…俺もごめん…。ちょっとびっくりした」
「――――だろう、な」

貞操観念を疑われてもしょうがない。兄の、しかも亡くなった兄の恋人であろう女。斎藤は、自分の兄が鬼籍のひとだと知っている。尚のこと軽蔑されてもおかしくはない。
呼吸を整えた友人は、言った。

「普通じゃなかったって、どういう、こと」
「聞くのか」
「聞いてもいいなら。だって、話すつもりで言ったんだろ」

あんたは、と。喋る彼の双眸はいつも通り、何処か透徹として見える。明かす前と、後と、何ら変わった様子はない。

「黒澤のことまだよく知らないけど、進んで兄貴の彼女とったりしないと思うし。それに俺、恋愛沙汰にはあまり…自信ないんだよ」
「俺は、お前の方が余程相手が居ると思う」
「いやもう実際居ないから、いいよ…俺のことはさあ…」と彼は言う。

伏せた顔には珍しく影があった。打ち消すように一回、咳払い。そうして斎藤は、備の肩を軽く小突いた。2人の距離は膝が触れあうくらいに近い。耳を澄ませば、彼の呼吸の音すらも拾えそうだ。

「…兄の四十九日が過ぎたとき、知り合いを名乗る女が来た。家には俺しか居なくて、中に上げて相手をした。変わった女だった」
「何歳くらい?」
「わからない…」

滑らかに青白い膚、黒檀のような長い髪と瞳、鮮血に似た赤い口脣。黒の膝丈ワンピースを纏い、俄かに降り注いだ雨の中をやってきた。
8つ上だった兄よりは年若いひとだったように思う。だが、備と比較すると、年上のようにも、幼くも見えた。年嵩にしては物慣れず、稚いとするにはあまりに落ち着いていた。

「正直、何故そんなことになったのか、今でもわからないんだ。…おかしいだろう」
「…おかしい、っつうか、想像つかねえ…」
「俺もだ」と備は言った。「まるで、夢か…冗談みたいだった」

気がついた時には、彼女はとんでもなく近い場所に居た。ワンピースが果物の皮のようにぺろりと剥けて、その中身のように白い肩が露わになっていた。ほっそりした指が備のシャツの襟を緩め、ボタンを外し、下半身を撫でた。女の目は終始、静謐で、穏やかに狂っていた。

―――あなたを徹して、わたしの知る前の要さんに触れた。あなたは、わたしを徹してあなたの知らないお兄さんに触れた。でもこの経験は歪んだもの。本来あるべきではないもの。だから、必要なときが来たらすぐに忘れるわ。

備を自分の体躯で射精させた後、彼女は淡々と言った。それから、突然に

『いま、好きな人はいる?』 

と聞いてきたのだ。



「好きな人ぉ?」
「ああ。『好きな相手は居るか』と聞かれた。居なかったから、前も今も居ない、と答えた」
「またざっくりとした返事をしたなあ…」
「仕方ない。それが本当だったんだ」

中学校も男子校だった。隣近所にあった共学校の女子から告白されたことはあったし、おそらくは見合い前提で親の知り合いの娘たちに引き合わされたこともあった。
けれど、斎藤が経験しているような、年相応の付き合いらしきものは皆無だった。

「そっか…。そんで?」
「もし好きな相手が現れたら、自分のことはさっぱり忘れるだろう、と言われた」
「………はあ…」




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