(4)



カランを捻って、水道の水をざあざあと出す。流水は金だらいをあっという間に満たして、器から溢れていく。まるで、ふとした機会に急速な熱を帯びる、妙見の言葉のように。

―――なんだ?一体、何が起きているんだ??

「あー、草一…」

シンクの縁に手を突いたまま緩慢に背後を見遣ると、申し訳なさそうに開き戸へ寄りかかる雄策が居た。無言で、流しっぱなしの水の帯に手を突っ込む。掬い上げて、顔を洗った。何度も、何度も。
辺りが水浸しになるのも構わずに顔を洗い続け、前髪から肩口、胸元までがびっしょり濡れても繰り返した。少しでも清潔な印象を与えられれば、と着込んだカッターシャツは白を通り越して半透明になっている。

「あれは何の冗談?…雄策」吐き捨てるように言った。自分でもこんな声が出せるのか、と思った。「慣れなくて浮かれている俺はそんなに面白かった?」
「悪かったよ。前もってはっきり言わなかったのはわざとだ。それは認める」
「わざわざうちの1年を引っ張り出してまでやるような、おふざけじゃないよ。一目見たときから、って、逢ったことないって言ってたじゃないか。矛盾だろ。…俺は、彼を知らない」

居間に放り出してきた客人との会話を反芻した。直接に逢ったことはなく、けれど相手は草一を知っている。
だが、顔や名前を覚えられるほど人前に出た覚えはなかった。生徒会の役員をしている訳でもなく、委員会は監査部会なので完全なる季節労働、部活動に至っては地学部だ。衆目の集まる所と草一とは無縁の筈だ。個性派揃いの特進科において、自分はかなり地味な部類に入ると自覚している。
思い当たる節もなく唯々混乱する自分を見、雄策は深く嘆息した。俺だって溜息吐きたいよ、とこぼすと、彼はもう一度「悪い」と言った。

「草一さあ、1年の時、職業体験で保育園に行っただろ」
「…ああ」
「それ、録画されて下の学年に流されたらしいぜ。去年の活動報告で」
「はあ…」
「で、それ見たたえがお前に一目惚れ。餓鬼の面倒見てるとこな」
「……」
「オレとたえは前から知り合いだったからさあ。何か様子が変だから突っ込んだら、運命の人を見つけた、って言うだろ?面白がって根掘り葉掘り聞いてる内に、」
「俺が釣れてたと」
「そう睨むなよ…つい、あ、そりゃダチだ、って言っちゃってさあ」
「言っちゃってさあ、じゃないだろ…」

申し訳ないが、草一の趣味はノーマルだ。人の嗜好に口を出すつもりはないが、少なくとも自分は女子が好きだ。妙見が稀な美形であることは同意する。しかし、それとこれとは話が別だ。第一、あのような、歩くだけでも巷の女が振り向くような男が、同じ男、かつ、ごく普通の草一に言い寄るメリットが見あたらない。

「デメリットだらけだ。冗談にもなりやしない」

ふるふると水気を振り捨てて、床を見つめた。水たまりがそこかしこに出来てしまっている。早く雑巾を持ってきて拭かなければ。直に寒くもなるだろう。体も冷える。風呂に、入りたい。それからさっさと寝て、全て忘れてしまいたい。

「早く連れて帰りなよ。もう十二分に驚かせて貰ったから」

悪趣味だ、とは思うが、その件で雄策を叱りとばすのは別の機会にしようと思った。振り返り、両肘に上半身を預けて流しに寄りかかる。何かに凭れてなければ、足下から崩れ落ちてしまいそうだ。好悪関わらず、人の強い感情をぶつけられたり、自分がそれを吐き出すことに慣れていないのだ。

「…残念ながら、悪ふざけとか余興の類じゃねえんだな、これが」

小津の声がやたらと平坦に聞こえて、水濡れたままの顔で彼を見上げた。いつもは眠そうな、半ば目蓋の落ちかかった双眸が、今は剣呑に歪められている。


「あいつの、あれは本」
「小津さん、……似鳥さん。どうしたんですか」


一向に戻ってこない二人に痺れを切らしたか、居間から出てきたらしい妙見が暖簾を跳ね上げてやって来た。その影に付き従うように、南街の姿も見える。
入り口に立つ小津を見、それから上半身びしょ濡れの草一に目を止めた瞬間、凄い勢いで寄って来られた。

「…うわ…」
「ど、うしたんですか、これ。一体何が」

それはお前に逢ってから俺がずっと言いたかった台詞だ、と内心でぼやきつつ、食い入るように見つめられて蛇に睨まれた蛙状態になってしまう。忙しなく瞬きを繰り返す瞳も、皺のない口脣も、やはり作り物のように整っていた。鼻先がくっつきそうな程の距離まで妙見が顔を寄せる。確かに相手は男だが、あまりの迫力に赤面してしまった。息が、詰まる。

―――するり。

「―――――!」

乾いている筈なのに、妙見の手は自分の体温よりも冷えていた。長い指を備えた手の甲が、草一の頬を撫で、首をなぞり、濡れてシャツを貼り付かせた右胸でひたり、と留まった。

「……っ、妙見、君」
「これは貴方の仕業ですか、小津さん」
「…断じて違う!」

やけに切羽詰まった雄策の声に、草一は目を瞠った。いつも飄々として、例え相手が強面の体育教師であっても一歩も退かないという噂の雄策が、明らかに、焦っている。
妙見は掌を草一の胸に添えたまま、凝と親友を睨み付けていた。燃え上がるように、きりきりと吊り上がる瞳に戦慄を覚え、愕然とした。そうは見えないとは言え、年下の、ただの、高校生の少年に、何故。

「…消しますよ、小津さん」
「やめろ」
「…やめてくれ、ほんとうに彼は何もしていない。する理由もない」
「―――似鳥、さん」

長い前髪越しに、妙見の表情が曇った。憎悪(そう、それは確かに憎悪だった)の感情に焼かれて跳ね上がった眉も落ち、下唇に歯を突き立てている様が見えた。

「…貴方は、小津さんが好きなんですか」
「………?」
「違う、そいつは別にオレのことなんざ、好きでもなんでもない」
「…雄策?」

一時は返答に困って口を噤んだものの、割って入ったあまりの物言いに草一は困惑した。親友の、つもりだ。だが、雄策の口調はそれすら否定して聞こえる。
一歩前に歩みだそうとしても、妙見が立ちはだかっているので先には進めない。彼を押しのけようと柔らかく力を篭めたら、何と、抱きすくめられてしまった。
大差ない身長の所為で頬骨がごつごつと擦れて、痛い。思わず悲鳴を上げた。

「…妙見、君、――山ノ井君、ちょっと…!」
「マコト!」
「…はい」
「小津さん、そっちに連れて行って」
「はい。…小津先輩」

骨張った手に肩を掴まれて、小津が小さく唸った。彼にはきっと振り払える筈なのに、抵抗は薄かった。信じられない光景だ。

「おい、たえ!ちゃんと逢わせてやったんだから、絶対無茶すんなよ!嫌われるぞ!」
「…分かってますよ」と妙見が呟く。
「こら真人!放せっての、痛ぇよこの馬鹿力!」
「妙見様、先ほどの部屋に下がっております」
「いや、もう、今日は先に帰ってて。僕は一人で帰れます」
「…それは」

南街が呆然とした風を滲ませて言う。彼と、妙見との関係は主従のそれだ。初対面の草一にだって分かる。

「…南街」
「…かしこまりました」

名ではなく、名字を呼ばれた眼鏡の少年は、背をすっと正すと優雅に腰を折った。躾の良い黒い毛の獣を思い起こさせる姿だった。ドアの枠に押し付けられた小津が馬鹿の糞のと騒いで居る。南街はそれを見て「すみません、」と呟いたようだった。

長身に引きずられるように退場しながら、小津が振り返った。癖毛がさらに無残に跳ねるのも構わず、親友は叫ぶ。

「草一、頼む、世界はお前の双肩に掛かってる!」

……なんだそれ?
がらがら、と引き戸が閉められて、やがて、台所は無音になった。突然、きぃい、と耳鳴りに穿たれて、草一は目を閉じた。モーターの回転数が異常に上がったような音がする。冷蔵庫が壊れたのだろうか。自分を拘束する他人の体温は相変わらずだ。むしろ妙見はこめかみを擦りつけるように、草一に縋っている。
ただ、閉ざしている筈の視界だけが白く、白く、塗りつぶされていく。

すべてがきえた。




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