溺れる藁(4)




(「……なんでだっけか」)


見下ろせば、丸い水紋が無限に繰り返される緑の流れがある。自分の像は濁っていて、影が映っていることくらいしか分からない。素足にぬるぬるとした懐かしい感触があった。この苔に足を取られて、全身ずぶ濡れになったこともあったな。

ビニール傘の上の空は白い絵の具を溶かし込んだような、不健康な色をしている。今度はそちらを仰ぎ見ながら、記憶をたぐり寄せた。
厭なことがあった時、誰かに泣きつくみたいに、俺は河川敷へ走った。闘病中のお袋にも言えず、長男らしく色々溜め込んでいる兄貴にも相談できない。親父には仕事があった。ユキには―――あいつ本人が元凶だったら言えやしねえし。

そう、俺と幼馴染みを繋ぐ、最悪の出来事にして、腐れ縁の燃料。今日見た夢は、アレの記憶が、ユキの大馬鹿の所為でぶりかえしたってとこなんだろう。

(「俺はもう、気にしてない。納得してるのに」)

ざば、と水を蹴り上げる。飛沫が弧を描いて飛んで、一瞬にして川へと戻っていく。もう一度脚を振り上げる。まるで、頭に入り込んでくる余計なことを追い出すみたいに。


昨日の深夜だ。便所に行きたくなって、俺は階下へ降りた。
下宿生用には小津さんの部屋の前にあるトイレの使用が推奨されている。母屋に続く扉はこの時間、悉く閉鎖されるのである。俺たち下宿生を信頼してない訳でもないけれど、防犯の為には仕方がないのだろう。

ただ、俺の場合は小さい頃から入り浸っていた習性で、すぐ食堂兼居間の脇にある便所へ足が行ってしまう。夜中に起き出して、あの幅の狭い階段をふらふら降りて、鍵の掛かった扉に跳ね返されることだって今でもあるくらいだ。

例によって昨夜も、十字の模様が浮き上がった硝子戸に行き着いたところで正気に返った。我ながら学習能力の無さ加減に哀しくなってくる。これが冬なら情けない話だが、寒さでうっかり漏らしているかもしれん。
さて、戻って水場の急な階段に挑戦するか(この家の階段は三つあるけれど、どれも恐ろしい作りをしているのだ)、と項垂れた俺は、そこでようやく気が付いた。
扉の向こうが何となく、明るい。でかい古時計や机、食器棚が判別できるレベルだ。明かりに誘われるまま、扉をスライドさせると、からからと慎ましやかな音を立てて畳の目が現れた。

(『…開いてる…』)

ばあちゃんが閉め忘れたのだろうか。あの几帳面なひとらしからぬことだ、と思いつつ、せめて電気だけでも消そうと中に踏み行った。居間の畳も、食堂に敷かれたリノリウムの床も、どこか湿っている気がする。夜の気配が部屋の中にあるすべてのものに万遍なく降り積もっている。
電気がついているのは居間でも食堂でもなく、いつも大家が立ち働いている台所の方で、俺は何の気なしに歩を進めた。


そして見たのだ―――――――頽れるようにして冷蔵庫の前に座り込んでいる、由旗を。





「…斎藤?」
「……―――!」

突然に俺を呼ぶ声に驚いて、振り返る。掻き回された水が足元でざばり、と騒いだ。
体つきに不似合いなでかい傘をさし、呆気に取られた顔で棒立ちになっていたのは特進科の一年生―――匂坂美雅だった。雨の中に荷物を放り出し、靴も靴下も投げて川中に立つ俺の姿に、彼も相当に驚愕しているように見えた。



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