溺れる藁(1)



【由旗】

僕の前に座る黒澤君と皆川君は先ほどからずっと黙ったままだ。黒澤君はあまり口数の多いひとじゃないから、いつものことだけれど、今一人の多弁な友人が口を噤んでいるのは珍事と言えば珍事かもしれない。

「…そんなに僕、暗い顔してる?」

ゆるゆると顔を上げて問うと、苦い薬でも飲んでしまったような表情と出遭った。

「陰々滅々を具現化したみたいな面構えだな」と皆川君は言う。
黒澤君は相変わらず無言。でも気遣わしそうな様子が伺えて、尚のこと申し訳ない気分になった。




斗与と、喧嘩をした。




彼が無茶をして僕が怒ったり、調子に乗りすぎた僕に彼が鉄拳制裁を加えたりするのと訳が違う。真剣に、本当の喧嘩だ。

昨夜勃発してしまったそれの所為で、今日は登校も別々、隣の席なのに一言も喋らず、午前の時間割は終わってしまった。

昼ご飯の時に謝れたら、と意気込んでいたところ、斗与は「新蒔、付き合え」とシャケに宣を下して教室からさっさと出て行ってしまった。
無視を仕切れない彼らしく、ドアの辺りで僅かに振り返って僕を見ると、

『…今日はこいつと喰うから』

なんて、断りまで入れて。
いつもは大概、僕と斗与と、不本意だけどシャケを加えた三人で昼食を摂っている。
少し前にジムで散財してしまった斗与は、暫く学食通いが出来ない身だ。だから彼の手には弁当袋が、もう片方にはシャケの襟首がぶら下がっていた。

躊躇いなく閉められたドアも、あっという間に消えた小さな背中も、はっきりと拒絶の意思を示していて、正直、呼吸の仕方を忘れそうになった。
予想はあったけれど、それが現実に目の前で起きた瞬間、僕の神経は隅々まで働きを拒否したのだ。一斉ストライキだ。全線不通だ。ああ、ほんとうに泣きたい。

教室の後方ドアを見返った格好で静止して、一体どれくらいの時間が経過していたのだろう。
再び扉は開いた。
立っていたのは勿論、斗与じゃなく(彼はああいったことに関しては初志貫徹なのだ)、赤いタイを締めた特進科の二人だった。




好奇の目から逃れるようにして、僕と黒澤君、皆川君の三人は学科共用の学食に来ている。二人とも、週の半分は自前で昼食を済ませているらしい。
月・水・金、火・木・土と言った風に弁当の回数を減らすことが出来るので、ばあちゃんの弁当と学食とを半々にしているようだ。
因みに「特進科の学食は物価高だからこっちを使ってんだよな」とは皆川君の言。

特進科のそれに入ったことは無いけれど、共用の学食は何処の高校ともそうは変わらないつくりだと思う。白い簡素なテーブルと丸椅子が並んでいて、テイクアウト用のおにぎりや弁当がある場所と、食堂内で食べるための惣菜や注文を取るフードレーンがある。
共用とは言え、使っている生徒は圧倒的に普通科が多く、昼時は大混雑だ。
相席なんて当たり前、今も三年の女子が僕と、黒澤君の隣に座ってお喋りに花を咲かせている。時折こちらの様子を窺っているのは――、うん、どうやら間違いではなさそうだ。

「それで斗与は大輔の阿呆にドナドナか…可哀想になあ」

そんな先輩たちを知ってか知らずか、眼鏡の友人は面倒そうにアスコットタイを引き抜いて胸ポケットにしまい込んだ。
上半身だけなら普通科に見えるけど、それを意図した行動じゃ無さそうだった。
どうやらピラピラした臙脂のタイが厭で厭で仕方がないらしい。そう言えば、昼休みの短い間だけだが、彼はしばしば外している。

「ダイスケ?」と黒澤君が首を捻った。彼はまだシャケと面識が無いのだ。
「備もいずれ知ることになるであろう、UMAだ」
「ユーマ…?」

復唱したのは僕。…何のことだろう。

「『Unidentified Mysterious Animal』。未確認動物。確認は出来ているが俺の心の目は拒否してるぜ…」

…全く同感である。
不理解も露わに、難しい顔になってしまった黒澤君には申し訳ないけれど、あれについての説明は成るべく避けたいところだ。
実際は、斗与がシャケを連れて行ったって事すら、訂正したくない。


辛口のカレーライスにタバスコと温泉卵を放り込んで、スプーンでがつがつと砕く作業に専心しながらも、喋ると決めたらしい友人は、早速疑問を口にし始めた。
黒澤君は隣で『きつねパワーうどん』なる代物を啜っている。ネタを明かせばお揚げと餅が入っているだけだが、今ひとつ弱そうなネーミングだ。一方の僕は弁当箱から茄子の辛子漬けを除去している。これのぐにゃ、ともカリ、ともつかない歯ごたえは嫌いなのに、ばあちゃんはちっとも学習してくれないのだ。

「それで一体何で斗与と喧嘩したんだよ。あいつ瞬発的にはキレるけど、大概そこまで怒ちゃいねえだろ」
「うん…。全面的に僕が悪かったんだけどね…」

そう、今回は僕に非があるのだ。彼の怒りは正当なものなんだと思う。

僕の最大の失敗は――、

「…謝ったのか」

さらに赤い液体を追加している皆川君を絶句した風で見てから、箸を置いた黒澤君が聞いてきた。彼の食べ方はとても奇麗だ。そういう事に気の回らない僕からしても、分かるくらいに。

「まだ、謝れてない。機会が掴めないっていうか、タイミングが合わないっていうか」
「…そうか」

黒澤君は少し考えた後で、僕の目をひたと見据えながら口を開いた。

「…俺が口を挟むことじゃないが、拗れない内に解決させた方がいい」
「――…うん」
「斗与は甘いから、お前が謝りまくれば絶対許してくれるって」
「…うん…」

深く立ち入らないけれど、心配してくれている様子が伝わってきて、僕は申し訳なさに面を伏せてしまう。皆川君もそんな黒澤君の言い方に準じたのか、追求の言葉を止めてしまった。かつ、と皿を浚うスプーンの金属音が耳に響く。

(「…ごめん、なんて。簡単に言えるのに」)

謝罪はいくらでも容易く出来る。出来てしまう。
僕の最大の失敗は、彼が怒ったのは、赦さなかったのは――そんな僕の卑屈さだ。

隙間を憎むかのようにぎゅうぎゅうと詰められた白米を見つめながら、同じ献立を食べているであろう斗与のことを考えた。

梅雨の所為で天気は思わしくない。中庭でも屋上でもないとしたら、今、君は何処に居るのだろう?
鼻の奥がツンと痛み、両目のきわが段々と熱っぽくなってきた。

だから、見かねてポケットティッシュを突き出してきた黒澤君に気付くのが遅れてしまった。




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