名前の無い少年(7)
「…おまえは家族からはなれてへいきなのか」
「うん」
「たいせつなのに、はなれるのか」
「うん」俺は少し考えてから、付け足した。「…大切だから、離れる」
「………」
彼はしばらく黙り込んでから、そうなのか、と呟いた。身体の中からころりと欠片が転がったみたいな、切ない響きがあった。…何か、まずいこと言ったかもしらん。どうにも申し訳ない気分になって、口を噤んでしまう。
「のぞまないとき、はなれることもある」
思わずの態だったのかもしれない。珍しくも口早に彼は言い、直後、俺の手を縋るように握り締めた。俺は俺で、男の手なんてそんなにいいもんじゃねえのに何が楽しいのかな、なんて漠然と考えながら、彼の動作を見守っていた。
「…あやまる。おまえにいうべきことばではなかった」
「あ、うん。いや、別に気にしてない」
むしろ彼の方にそんな別離があったのかと心配になる。
年齢なんて関係ない、経験すれば子供にだって分かる理屈もあるんだ。
「母さんのことは、何つうか、…ゆっくり自分に馴染んできている感じがする。まだ、完全じゃないけど。でも兄貴はまだ生きてる。親父も。二人にも――俺にも、ちょっと夏休み的なもんがあってもいいかなって思ってさ」
「なつやすみ」
「そう。夏休み」
お互いの事を考えて、考えないで良い時間。俺がこの街で過ごすであろう三年の間、全員一時解散だ。
「…まあ、受かればの話だけど」
「……おまえはだいじょうぶだ」と彼。「かならず、うかる。うからなくても―――」
「何だよ不吉なこと言うんじゃねえよ」
「…あやまる」
悪戯を咎められた子供のように、彼の声音は弱々しかった。俺はちょっと笑って、繋いだ(最早そういうレベルだった)手をぶんぶんと振り回した。
「怒ってないよ」
「…そうか。―――…なあ、」
俺が彼の名前を知らないのと同じように、彼も俺の名前を知らなかった。
なあ、とか。後は黙って、不思議に分かるジェスチャーでこちらの注意を惹いてくれる。そんな遣り取りが年に数回続いて、今に至っている。
(幼い子供が作る『自分だけのともだち』という奴だ。何でも聞いてくれ、何処に行くのも一緒の、架空の存在。中学生になってまで引きずっていた事実は、恥ずかしすぎて誰にも言えない)
「あいつのことは、へいきなのか」
「…、あいつ?」
「そうだ」と半透明のフードの下から、低い声がする。
乳白色の皮膜のようなそれは、意外にも可視を赦さない。そこから先は何も見えないのだ。
レインコートの少年は断罪者の声音で言った。
「―――おまえをきずつけたやつだ」
「…そんな奴、」
居ない、と続けようとして、ぴり、と奔った痛みについ顔を顰めてしまった。
握られた手の平へ硬い、親指が食い込んでいる。ぐいぐいと遠慮無く刻まれていくそれに、流石に呻いた。
「痛い」
けれど、彼は離れない。むしろ身を屈めて、食いつくようにして掌の肉を抉っていく。
手か?
――違う。腕、だ。
半袖のシャツからのびる腕へ、生温かい吐息が掛かっている。まるで待ち焦がれた獲物に食いつく前の、獣のそれだ。
ちらりとこちらを眺める眼窩は笹の葉に似た形をしていた。中に嵌った瞳は複雑な色に染まっている。
それがどんな好意を携えていたとしても、俺を追い詰めることしか出来ないと言うのに。
振り解こうとして肩を捻った。腰を起点に、半身を振り回すようにした。それでも拘束は解けない。
「痛い」
「……いたむのか」
ゆっくりと舐める、気配が乖離していく。低く、体躯の中を震わす声。かつて俺が縋った。
逆に濃度を増していくのは痛みの方だ。過去が研ぎ澄まされて戻ってくる。終わった時間の影は恐怖の形をしている。
そのとき、確かに俺は怖くて怖くて、仕方がなかった。だから、逃げた。目を合わせるのも、話をするのも恐ろしかった。
『ごめんね』
『でも、もう』
――――我慢できないんだ。
悲鳴を上げようとしたのに、舌は口の中で膠のように貼り付いている。四肢は動かない。
のし掛かかったそいつ、蹂躙する存在が俺の手を舐め、腕を舐め、首を舐め上げるのを身動きが取れない故に許した。
そいつは、何処に歯を突き立てようか、迷い、浮かれているようにも思えた。
目を閉じろ。耳は塞げなくても、思考をシャットダウンすればいい。
何も感じないように、背中を、ベッドの底を目指して自分の意識が落下していくイメージに、すべてを委ねる。
(―――もう俺は納得しているのに、どうして、今更)
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